『突然の君の訪問』
いつだって、彼の訪れは突然だ。
夜の静寂にふと振り向くと、そこに居たりする。
始めのうちはたいそう驚いて思わず声を上げたりもしていたけれど、次第に慣れてしまった。
夜だけでなく、昼間も現れるようになったのはいつからだろう。
居間のソファに、
キッチンの流しに、
洗面所の鏡の中に、
寝室のベッドの脇に。
そうして何年、何十年と経った。
そろそろ私も老境に入る。
彼は相変わらず、なんの前触れもなく現れる。
初めて声をかけてみようと思った時、私と同じように歳をとった彼が、まっすぐに私を見てこう言った。
「君はいつだって突然現れるね」
『私の日記帳』
役場に行った帰り道、あまりの暑さにアイスを買い、適当な木陰で一休みしていた。
目の前にはゆるく続く坂道。
その手すりにもたれ掛かって、熱心に何か書きつけている人がいた。
小さな青い手帳に鉛筆で。
興味を惹かれたが話しかけることもなく、アイスを食べ終えた私は歩き出した。
するとバサリと音がして、振り返ると先程の人が地面に両手をついていた。
慌てて駆け寄り大丈夫かと声を掛けた。どうやら目眩を起こしたらしい。
木陰に誘導し、熱中症予防の飴とペットボトルの水を渡してしばらくすると、その人が「何かお礼を」とポケットやカバンを探り出した。
礼には及ばないと立ち去るところだが、ふとあの手帳のことが気になった。
何を熱心に書いていたのか尋ねると、「私の日記帳です」と言う。
お礼の代わりに読んでもいい、とまで。
さすがにそれは遠慮したかったのだが、半ば強引に手渡された。
日付は、明日以降のものだった。
これから先に起こるであろう災禍の予定。
私が言葉を失う横で、その人は穏やかに微笑んでいた。
『やるせない気持ち』
わかっていました。
あの人や、あの人の家族が、私をタダで扱き使える使用人くらいにしか思っていないことは。
私は愛する人と結婚したと思っていたけれど、あの人は自分がやりたくない汚れ仕事を任せられる介護要員を得たと思っていたことも。
それでもいいと、思っていたんです。
何もやることがなくて身の置き場がないよりは。
頭の中を真っ白にして、ひたすら作業をしていれば余計なことを考えずに済みますから。
だから、あのままでいてくれれば、私は息を潜めてひっそりと暮らしていたのに。
義理の姉が、私の生まれを調べなければ。
義理の母が、私の瞳の色に気づかなければ。
あの人が、私との出会いに疑念を抱かなければ。
嗚呼、人はなんと愚かな生き物なのでしょうか。
自ら死に急ぐとは。
私は何度こんな気持ちにさせられるのでしょう。
『鳥のように』
傍聴マニアと呼ばれる友人に誘われて、とある小さな地方裁判所で行われた窃盗事件の傍聴に行ったことがある。
被告人は40代前半の男性で、なんでも商店街の路地裏から段ボールを何十枚も盗んだらしい。
本人も犯行を認め、粛々と裁判は進んでいった。
最後に何か申し述べる事はないかと訊かれ、被告人はこう言った。
「満足のいく翼が作れなかったのが残念です」
一瞬、ポカンとした空気が廷内に漂った。
隣で友人が身を乗り出す気配がした。
裁判官の一人に説明を促され、被告人は滔々と段ボールによる翼の作成方法について語ったが、最後にこう締めくくった。
「空を飛んでみたかった。鳥のように」
イカロスか!
廷内の何人かは、きっと私と同じツッコミを心の中でしたことだろう。
すると、それまで黙って聞いていた年嵩の裁判長が砕けた口調で言った。
「この暑いのに、太陽に近づいたら熱中症になっちゃうよ」
今度は被告人がポカンとする番だった。
「もっと爽やかな季節の方がいいんじゃないかなぁ。それに、人に迷惑をかけるのは駄目だよね」
閉廷の合図と共に、裁判官たちが退廷していくのを見ながら、友人が私の腕をつついた。
「今日はなかなか当たりだったな」
それは認めざるを得ない。
『いつまでも捨てられないもの』
二軒先のSさんが、ゴミ捨て場に立ち尽くしていた。確か今週の掃除当番だ。
なんでも、指定の袋ではない真っ黒なビニール袋が捨てられていたそうな。
困り顔で指差す先には、なるほど黒いビニール袋があった。
次のゴミ収集日までどこかに置いておこうにも、中身を指定のゴミ袋に移し替えようにも、重たくて持ち上げられないらしい。
試しに持ち上げてみようとしたが、Sさんの言う通りやけに重たく、水分を含んだようなグニャリとした感触があった。
どうしたものかと思案していると、別のご近所さんが通りがかり、「Mさんが捨てていた」と言う。
それならとMさんの家を訪ねたが、誰も出てこなかった。
数日前、仕事帰りにMさんと挨拶がてら雑談をした時、「ずっと捨てられずにいたものを捨てる決心がついた」と言っていた。
「思い切りましたね」と言うと、「ええ、ようやく」と小さく頷いていた。
仕方がないので、Mさんが帰ってくるまでそのままにしておくことになり、私たちは解散した。
おそらく、Mさんはもう帰ってこないだろう。
さっき試しに持ち上げた時、逆光にほんの微かにビニールが透けた。
トリコロールに塗られた爪は、数日前「オリンピックにちなんで」とMさんが見せてくれたのと同じものだ。
だとすると、Mさんがビニール袋を捨てられるはずがない。
あのご近所さんは、なぜわざわざMさんの名前を出したのだろうか。
長年の友人だと聞いていたのだが。