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8/22/2024, 4:15:58 AM

『鳥のように』

傍聴マニアと呼ばれる友人に誘われて、とある小さな地方裁判所で行われた窃盗事件の傍聴に行ったことがある。

被告人は40代前半の男性で、なんでも商店街の路地裏から段ボールを何十枚も盗んだらしい。
本人も犯行を認め、粛々と裁判は進んでいった。

最後に何か申し述べる事はないかと訊かれ、被告人はこう言った。

「満足のいく翼が作れなかったのが残念です」

一瞬、ポカンとした空気が廷内に漂った。
隣で友人が身を乗り出す気配がした。

裁判官の一人に説明を促され、被告人は滔々と段ボールによる翼の作成方法について語ったが、最後にこう締めくくった。

「空を飛んでみたかった。鳥のように」

イカロスか!
廷内の何人かは、きっと私と同じツッコミを心の中でしたことだろう。

すると、それまで黙って聞いていた年嵩の裁判長が砕けた口調で言った。

「この暑いのに、太陽に近づいたら熱中症になっちゃうよ」

今度は被告人がポカンとする番だった。

「もっと爽やかな季節の方がいいんじゃないかなぁ。それに、人に迷惑をかけるのは駄目だよね」

閉廷の合図と共に、裁判官たちが退廷していくのを見ながら、友人が私の腕をつついた。

「今日はなかなか当たりだったな」

それは認めざるを得ない。

8/18/2024, 7:26:56 AM

『いつまでも捨てられないもの』

二軒先のSさんが、ゴミ捨て場に立ち尽くしていた。確か今週の掃除当番だ。

なんでも、指定の袋ではない真っ黒なビニール袋が捨てられていたそうな。
困り顔で指差す先には、なるほど黒いビニール袋があった。

次のゴミ収集日までどこかに置いておこうにも、中身を指定のゴミ袋に移し替えようにも、重たくて持ち上げられないらしい。
試しに持ち上げてみようとしたが、Sさんの言う通りやけに重たく、水分を含んだようなグニャリとした感触があった。

どうしたものかと思案していると、別のご近所さんが通りがかり、「Mさんが捨てていた」と言う。

それならとMさんの家を訪ねたが、誰も出てこなかった。

数日前、仕事帰りにMさんと挨拶がてら雑談をした時、「ずっと捨てられずにいたものを捨てる決心がついた」と言っていた。
「思い切りましたね」と言うと、「ええ、ようやく」と小さく頷いていた。

仕方がないので、Mさんが帰ってくるまでそのままにしておくことになり、私たちは解散した。

おそらく、Mさんはもう帰ってこないだろう。

さっき試しに持ち上げた時、逆光にほんの微かにビニールが透けた。
トリコロールに塗られた爪は、数日前「オリンピックにちなんで」とMさんが見せてくれたのと同じものだ。

だとすると、Mさんがビニール袋を捨てられるはずがない。

あのご近所さんは、なぜわざわざMさんの名前を出したのだろうか。
長年の友人だと聞いていたのだが。

8/17/2024, 5:00:07 AM

『誇らしさ』

最後の1音を弾き終わると、会場には静寂が訪れました。

そして、一拍置いて万雷の拍手。

素晴らしい!
なんて素晴らしいんでしょう。

あの子がどれほど努力してきたのか、私は知っています。

厳しいレッスンに、日々の生活から削られる自由時間。
練習のし過ぎで手の腱を傷めたこともあります。
本当は緊張しやすい性格で、人前に出るのが苦手なことも。
食べ物に好き嫌いがあって、でもそれでは何曲も弾く体力がつかないと、我慢して飲み込んだことも。
お友達との付き合いも制限され、学校の授業さえ後回しになることも。

相応しくない人たちからの接触は、あの子のためになりませんものね。

何時に寝て何時に起きて、何時間レッスンに費やしたのか。
登校の途中で誰と行きあい、なにを話したのか。
帰りはどこを通って帰ってきたのか。
朝昼晩と、何を食べているのか。
あの子の1日を、私は全て把握しています。

「よく、赤の他人の子供にそれだけ入れ込めるな」

テレビを見ている私の隣で夫がなにか言っていますが、気になりません。

ああ、なんて素晴らしい!
誇らしさでいっぱいです。

8/16/2024, 9:53:31 AM

『夜の海』

ぐるりと海に囲まれた場所で生まれ育ったので、夜だろうが昼だろうが、いろんな海の顔を見てきたつもりだ。

それでも、台風で荒れ狂う海だけは、直に見に行かないようにしている。
――命に関わるので。

お盆の海には入っちゃいけない。
台風の海を見に行っちゃいけない。

このふたつは幼い頃から嫌と言うほど言い含められてきた。

さらに言うと、夜の海にも入っちゃいけない。

これは、身内の怖い体験によるものだ。

で、いま現在。
テレビから次々と映し出される映像を見ている。
夜の海、加えて台風に荒れる海を。

自分なら、いや、地元民なら決して近づかないだろうに、画面の中の人たちは口を揃えて言う。

「安全を確保してお送りしています」

8/15/2024, 3:10:07 AM

『自転車に乗って』

ヘルメット、よし。

学校の指定カバンを背中に、そして制服のスカート部分はぐるりとマジックバンドで抑える。

前かごに入れておくのは素人のやること。(ヒョイと盗られたら一大事)
スカートをはたかめかせるなんて、以ての外。(車輪に巻き込んで怪我のもと)

チャリ通舐めんな。

今日は風が強い。迫る台風の影響だ。
今夜半から本格的になるらしいが、今のところは風が強いだけ。

そう、つまり登校せねばならない。

なぜ休みにしてくれないのか。
わかってる、雨降ってないもんな。
電車もバスも動いてる。
風だけって思ってるんでしょ?

強風侮るなよ。

こういうシチュエーションは何度も経験してる。

向かい風と自分の脚力が拮抗して、五分以上その場から1ミリたりとも進まなかったこともある。
横風に煽られ、田んぼに落ちて全身泥だらけになったことだってある。(制服のクリーニング代は高くついた)

苦い思い出だ。
自転車通学者にとって、風は大敵である。
しかし、行かねばならぬ。
義理堅いメロスのように、はたまた無謀なるドン・キホーテのように。

いざ、行かん。

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