束の間の休息
感謝の気持ちを持つと、いい人生になるらしい。僕の人生がイマイチなのは、きっと感謝の気持ちが足りないからだな。
カバーをパカッと開けて、フィルターを外した。案の定、埃が溜まっていた。夏中、本当に毎日フル稼働だったからな。
外の水道で埃を落とす。専用の泡洗剤をかけておく。その間、洗浄スプレーで本体を洗う。電気部分にかからないように慎重に。
フィルターの泡を落とし、物干しにぶら下げる。帰宅後、乾いているのを確認し本体に戻した。
パチっとカバーがはまる音を聞いて終了。
エアコン君、夏の頑張り、ありがとうな。冬が来るまで、ゆっくり休んでくれ。秋が短くなった近年では、束の間の休息かもしれないが。
力を込めて
ほんの2週間前までは、ずっと半袖でいられた。今は寒暖差が怖くて、クロゼットから少しずつ長袖を引っ張り出している。
今年の夏は暑かった。おかげで体もほぐれてよく動けた。元気な太陽を見ると、何かしたい、じっとしていたくない、って感じで心も熱かった。
でもひとつだけ。心残り。
機会がなかったわけじゃない。帰りが一緒になることもあった。一緒に冷やし中華も食べたし、スイカも食べた。
でも言えなかった。一度言おうとしたけど。怖くて。
それが心残り。夏の落とし物……。
10月某日。日は落ちたけど、この日はまだ半袖で過ごせる。隣を歩く彼も、まだ半袖だった。
駅へ向かう。路線は別。だからいつも駅でさよなら。
今夜はまだ暖かい。心にもまだ、夏の熱が残っている。
じゃあ。 いつもの場所でいつも通り背を向けようとする彼。
私は夏の余熱の力を借りて、力を込めて一步踏み出した。
待って。話したいことがあるの。
ずっと閉じ込めてきた想い。今度こそ伝えなきゃ。
震える声。でも。今日こそ夏の落とし物を拾おう。
頑張れ、私。
過ぎた日を想う
実家に帰ると、垂れ下がった柿の枝が増えていた。実が大きくなった証拠だ。色もオレンジに染まりつつある。もうそろそろ収穫。渋柿の木。
昔は隣にもう一本あった。こちらは甘柿。渋柿は採ってから皮を剥いて軒先に吊るす。甘柿は皮を剥いたらすぐ食べられる。子供の頃は甘柿の方が好きだった。すぐ食べられるから。
それが、10何年か前の台風18号か19号か20号かで倒れてしまった。家族一同、楽しみが干し柿のみになってしまったわけだ。
また別のある日の実家帰り。
車を降りて家に向かう途中、猫の鳴き声が聞こえた。周りを見渡すと、柿の木の枝に登って私を見下ろしている。
ただいま。
にゃあ。(おかえり)
家、入んないのか?
にゃ。(まだいい)
じゃあ先に入るよ。
着替えてから、コーヒーを飲むのに電気ポットのスイッチを押した。
湯が沸くのを待つ間、窓から柿の木を見てみた。
枝の上で鎮座するシャム猫。こちらには背中を向けている。顔は向こう側。甘柿の木があったほう。
昔は二本の木をいったり来たり、登り降りしていた。若猫の頃だ。いまは一本の木だけ。
背中になんとなく哀愁を感じる。
甘柿の木のこと、思い出してるのかな?でもないものはしょうがないよ。
コーヒーを淹れた。棚からクッキーを出して食べた。
まだ戻んないのかな。戻ってきたら、ちゅ~るをあげよう。寂しさも、ちょっとはまぎれるはず。
星座
ドア閉めます。どちらまで?
くじらを見たいんだが。
くじらですか。ここからだと長距離になりますがよろしいですか?
ああ、構わない。
では、行きます。 運転手がハンドルを右へ切る。
お客さん、動物は大丈夫ですか?
動物?別に問題ないが。
そりゃ良かった。いえね、先月乗せた客がそっち方面が苦手だって言うもんでね。わざわざ、ケフェウス─カシオペア線まで迂回したんですよ。あそこは渋滞が酷いから。でもお客さんはそんなことないようで助かった。最短の、こぐま─おおぐま線からきりん─やまねこ線を通って行きます。あ、シートベルトお願いしますね。
惑星タクシーが垂直飛行を始め、大気圏を抜けたところから水平飛行へ移った。遥か遠くの星々が、煌めきを残しながら後ろへ流れていく。
最近はタクシー業界はどうかね。
いやあ、厳しいですね。何でもかんでもロボット化が進んじまってね。私なんかもクビになりそうだったんですが、社長と麻雀仲間だったんでなんとか助かったんですわ。なんだかんだ言っても、やっぱり最後は人情ですね。
そうか。確かにそういうものかも知れんね。
途中、給油のために、ぎょしゃ座のカペラに寄った。
ここは混むね。
ええ。ほら、あっち見て下さい。あれがペルセウスです。あれ見たさに、観光客がここで休んでいくんですよ。
そういうことか。
もしよかったら、少し寄って行きますか、ペルセウス。
いや、いい。行こう。
そうですか。じゃ出発しましょう。ここから間もなく、おひつじ─おうし線を通れば、すぐくじらが見えますよ。
お客さん、お客さん、起きてください。着きましたよ。
ん、おお、そうか。あ、あれか。な、なんと。なんと、広大な。
いやあ、私も久々に見ましたが、凄いですね。壮大で圧倒されますね。……ん、お客さん?どうしたんですか。いくらなんでも、くじらが神秘的だからって、なにも泣くほどじゃないでしょう。
ああ、いや。実はね、今日は代わりに来たんだ。友人の代わりにね。
代わり?
……入院していてね。死ぬ前に自分の代わりに見てきてほしいと。
ああ、そういうことですか。……もう長くないんですかい?
ああ。
そうですか……。そうだ、写真撮っていきますか?私撮りますよ。ほら、そっちに立って。
ありがとう。……いや、やっぱりいい。
へ?どうしてです?
写真みせたら、あいつの中のくじら座が完結しちまう。満足だって。そしたら、もういいか、って気力が抜けちまうんじゃないかな。
そうかあ、そうかもしれませんね。じゃあ、お客さんがいっぱい話してやればいいんですよ。くじらはこんなに凄かったって。神秘的だったって。そしたら自分でも見たくなって、生きる気力も出てくるんじゃないですか?
なるほど。
よし、そうと決まればさっそく戻ってお見舞いに行きましょう。病院まで送りますよ。超特急で。
ありがとう、運転手さん。でも安全運転で頼むよ。スピード違反はしないでくれよ。
いやいや、任せてくださいよ。こう見えても昔は、『峠の皇帝』と呼ばれたこともありましてね。
タクシーが旋回し青の星へ向いた。
帰りはアルデバランに寄りましょうか。あそこの牛すき焼きは絶品でしてね。お友だちへの土産話に加えてみてはどうです?
はは、そうか。じゃあ頼むよ。
それでは目的地、アルデバラン官公庁前。出発します。あ、シートベルトお願いしますよ。
踊りませんか?
休日だというのに、仕事だ、と言って普段と変わらない様子で出ていった。あまりにもいつもと同じ様子なので、何も言えなかった。
今日は、記念日なんだけどなあ……。
心の中でつぶやき、洗濯を始めた。
お昼前。
ただいま。 彼の声。こんなに早く?驚いて振り返ると、さらにまた、驚いてしまった。
タキシード姿の彼が蝶ネクタイを整えながら立っていた。
ど、どうしたの?
君とダンスしたい。 そう言って手を伸ばしてきた。わたしはその手を取り、彼に近づいた。
この服、どうしたの?
借りてきた。どう?
うん。カッコいい。服が。
服だけ?
服だけ。 お互い笑顔が漏れた。今日初めての笑顔。
それから、ふたりとも馴れない手つきで踊ってみた。リビングの小さなスペースで。テレビか何かで、誰かが踊っていたのをなんとなく思い出しながら。
下手ね。
シューズを借りるのを忘れたから、しょうがない。スリッパじゃ本来の力が出ないんだよ。
わたしだってスリッパよ。服も部屋着だし。
じゃあ来年は、君のも借りてこよう。シューズも。
イヤ。あんな派手なの着たくない。
そっか。
うん。でも。
でも?
踊るのはいいよ。ここで。来年も。再来年も。