巡り会えたら
昔から声が小さかった。いや、小さいというかこもる声というか。他の男子よりも声が低かったことが無意識にコンプレックスになって、それであまり声を出さなくなったのかもしれない。
いい声を出すには、やっぱり腹式呼吸がポイントらしい。肩の力を抜いて、お腹の膨らみを意識して。最初は大変そう。できるかな。
それからハミング。裏声がでやすくなるらしい。鼻から音が出るように意識して。まさに鼻歌だな。これは皿を洗いながらできそう。
もし運命の人に巡り会えたら、カラオケでミスチルの《Sign》を歌ってみたい。もちろん、桜井さんのように歌えるわけもないけど。
でも腹式呼吸とハミングのトレーニングで、今より少しでもいい声で歌えたら、と考えると、運命の人に出会える日が近づくんじゃないかってなんとなく思えてくる。
『巡り会う』って、100%、運とか縁、って思ってたけど、そんなことないのかもしれないな。
奇跡をもう一度
少し寒いな。昼はまだ夏っぽかったのに。
だから言ったでしょ。長袖の方がいいって。
はい、はい。
久しぶりに公園のある高台へ行ってみようということで、深夜に車を出した。
ここのところ、ギクシャクしていた。原因はわからない。わからないというのがまた、終わりをいっそう感じさせるような気がしていた。
高嶺の花だった。自分自身も周りも、なぜ、とありえない組み合わせだと思っていた。だから、いいよ、と言われた時は、奇跡ってあるんだなと心から思った。
高台に着いた。他には誰もいなかった。
車を降りて手すりの側に寄っていった。
相変わらず、ここの夜景はいいな。
うん、そうだね。
町の灯りは、もう、ちらほら。そのかわり、空には満点の星々が輝いている。
あのさ、最近、なんかあった? 思い切ってこちらから切り出した。
うーん、どうなんだろ。あるようなないような。
なんだか、変な感じだよな最近。俺たち。
うん。でも、どっちかが悪いとか、そんなんじゃないと思う。タイミングっていうかペースっていうか、たまたま合ってない感じ……。
しばらく沈黙が続いた。そしてまたこちらから口を開いた。
別れるとか、無いからな。
……そうだね。 彼女は一言、静かに言った。
そこからまた沈黙が流れた。何を言えばいいかわからない。
なんとはなしに空を見上げた。
あれ?なんとなくあの星だけ、色が違わないか?
どれ?
ほらあの星。 指でさして言った。
どれ?どの星?あれかな。どうだろ。そう言われればそうかも。あれだよね。 彼女も指さした。
彼女の本心がどんなものなのかはわからない。そうだね、とは言ってくれたけど、本当はもう、ダメなのかもしれない。
空には無限の星が散りばめられている。
僕が指した星と、彼女の指した星が同じであって欲しい。
そんな奇跡がもう一度あってくれたなら……。心からそう思った。
たそがれ
トイレに行ったあと、階段の踊り場で立ち止まった。窓から夕日が見える。
な~に黄昏てるの。 振り向くと先輩が立っていた。
別に黄昏れてませんよ。ただ、夕日を見てただけ。
ふうん。はい、どうぞ。
どうも。 コーヒーを受け取った。一口つけたあと、また外を眺めた。
夕日がそんなに珍しいの?
まさか。ただ、夕日って、あんな感じだったなと思っただけ。久しぶりに見た気がする。
へえ。 そう言って、先輩も同じように外を眺めた。
確かに、わたしも夕日なんてじっくり見たの、久しぶりかも。
沈んでいく夕日をふたりとも無言で見ていた。沈む速さが、速いのかゆっくりなのか、よくわからない。踊り場はそんな雰囲気だった。
おっと、戻らなきゃ。残業、残業。あなたもそろそろ戻ったら?
そうですね。あっ。
夕日から視線を横にやった。先輩の流れる髪を夕日が金色に染めている。
ん?なに?どしたの?
あっ、いや、肩にゴミがついてると思ったんですけど、違ったみたいです。
そう。じゃあわたし行くね。 彼女は席に戻っていった。
金色に輝く姿が美しいと思った。心から。でもそれをどう言っていいのか、そもそも僕なんかが口にするべきことなのか、迷ってしまった。
また外を眺めた。
やれやれ。今度は本当に黄昏そうだな。
きっと明日も
フライパンにバターを入れて中火で溶かす。
溶いた卵を入れてかき混ぜる。
絶えずフライパンをゆする。
……もういいかな。
フライパンを傾けて形を整えながら、丸めていく。
最後に強火で少し焼いて固めて出来上がり。
皿に盛ってテーブルへ。
いただきます。
いただきます。
……どう?
うん。美味しい。半熟具合いがちょうどいい。
よかった。
食べ終わったあと、食器を洗った。
最後にフライパン。油汚れが残らないように念入りに。綺麗に、綺麗に。
綺麗なフライパンなら、きっと明日も美味しい料理を食べさせてあげられる。はず。
明日も頼むぞ、テフロンフライパン君。
静寂に包まれた部屋
学生の頃、宿題をするときはいつもラジオをつけながら机に向かっていた。古文・漢文、それから英文を、教科書から書き写す。その後、訳す。ラジオを聞きながらでも、スムーズにできた。
ところが、作文、論文となると、一向にペンが進まなくなる。原因がラジオだと気づくのにしばらくかかった。
要は、単純な作業はノリノリでできるが、創作、オリジナルのアイデアを生み出そうとするときは、周りの音が邪魔になるのだ。いまもそれは変わらない。なら……。
静寂な部屋を作ろう。
デスクに着く。テレビもラジオも消す。ユーチューブも消す。
まだだ。秋。虫の声。近所のバイクの轟音。こればかりは何もできない。じゃああきらめるか。いや。
雑音に引っ張られるのは集中してないからだ。どんなシチュエーションでも、自分が集中していれば問題ない。
と、昔、有名な数学者が講演で言っていた。
確かにそうだ。集中しているとき、周りの音は気にならなくなる。
目を閉じて深呼吸する。自分の意識を深く深く沈めていく。
僕はいま、何を書こうとしたのか。何が書きたいのか。今日これを書かなかったら後悔しないか……。
繰り返し繰り返し、自分に言い聞かせる。
ペンを取り、書き始める。文章の最初の言葉が書ければ、あとはスラスラと続いていける。
やがて、止まらなくなる。
こうなったら、もう大丈夫。
何者にも侵されない、静寂に包まれた部屋の出来上がり。雑音はもう、僕には届かない。