赤い糸
学生の時から使っている鞄。ところどころ傷みはあるが、まだまだ十分使える。大事な相棒だ。
朝。ファスナーを開いて準備する。
万年筆。手帳。ハンカチ。
水筒。文庫本。
ナイフ、はいらないな。
涙、も置いていこう。
鞄を閉じ靴を履いた。
今度こそ、赤い糸を見つけられるようにと願いながら扉を開く。
ナイフなんかじゃなく、自分の手でまやかしの糸を切り裂いて。
大丈夫。自分ならできる。
涙は置いてきた。もう見間違えることはない。
入道雲
部活からの帰り道。偶然会った7つ年下のそろばん塾帰りの弟とふたり、自転車を漕いで帰宅中。
中学校の裏山の上に、モクモク、モクモク、白い雲。
兄ちゃん、あの雲、めっちゃでかい。
早く帰るぞ。雨降るから。
なんでわかるの?
あれはそういう雲なんだよ。雷も鳴るぞ。
えぇ~。 スピードを上げた僕に必死でついてくる弟。
なぁ、兄ちゃん。
なんだ。
ポンデリング食べたい。
ポンデリング?なんで。
なんとなく。
んん、と少し考えて、
じゃあそこのコンビニで買う。
だめ。
なんで。
そこのポンデリング、白じゃない。
いいだろ、白じゃなくても。
ヤダ。白いポンデリング食べたい。
なんでだよ。
なんとなく。
またも、んん、と考えて、
じゃあミスドまで行くか。
うん。 弟はスピードを上げ、隣に並んでくる。
ほら、危ないから横来るなよ。後ろにいろよ。
うん。 弟が素直に下がっていく。
お母さんには内緒だからな。
うん。
頭の中で財布の中身を確認する。千円札があったはず。大丈夫だろう。
なぁ兄ちゃん。
なんだ。
じいちゃんにも買ってく?
だめだって。お母さんにばれるだろ。
あ、そっか。
全く。手間のかかる弟め。と心のなかで独り言ち。とは言うものの、ついつい甘やかしてしまう、年の離れた弟よ。
そんな夏の日。
夏
夏ももう終わりね。
いや、これからです。 まぁた何か始まったよ、と思いながら、年上の彼女に返答した。6月末の夜。
今年の夏もいろいろなところへ行ったわね。
今年の夏はこれからなんだけどね。
やっぱり海は良かったね。人が多かったけど、それも夏って感じで。ひと夏に一回は海行かないとね。
はあ、そうですか。
あとは、キャンプね。初心者だからテントじゃなくてコテージ借りて正解だったね。お風呂も冷房もついてたし。
はあ、コテージですか。
あと、滝ね。近づくと細かい水しぶきがかかるのよね。マイナスイオン浴びてるって感じで最高だったね。
はあ、マイナスイオン。
そうそう、その帰りに食べたあそこの有名なステーキ、美味しかったね。デザートのシフォンケーキもふんわりしてて、とろけちゃうんだよね。
はあ、ステーキとシフォンケーキ。
本当に、今年の夏は最高だったね。 彼女がこちらに笑顔を向けた。
ええっと、ですね。 僕は一度咳払いをしてから切り出した。
スケジュール的に、海かキャンプ、どちらか1つにしてもらえると助かります。もしキャンプの場合は、コテージではなく、ロッジ、もしくはバンガローを検討してもらえると、予算的にもありがたいです。
次に、滝帰りのステーキ&シフォンケーキなんですが、マイナスイオンは家のドライヤーからも出ますので、そちらでお願いします。
ステーキは、再来月に隣町にステーキ店がオープンするらしいので、そのクーポン取得まで待ってください。
以上、よろしくお願いします。
……シフォンケーキは?
ええっと。これから材料を買ってきて作ります。
作れるの?
さあ。だから、手伝ってくれると助かります。
……うん、手伝う。
身支度を整えて、外に出た。前日の雨の余韻を含んだしっとりとした空気。夏の始まりの空気。
日差しが強い。うっすらと汗ばむ暑さだが、彼女の方から近づいて手を繋いできた。
やっぱりさ、どこにも行かなくていいからどっか行こ?
なにそれ。どういうこと?
ずうっと車で走るの。どこにも止まんないで、ずうっと走るだけ。
走るだけ?
走るだけ。
それだけ?
それだけ。
それなら……。
それなら?
ステーキぐらいならいいよ。今日だけ。
よし。言ったね、約束ね。作戦成功。 彼女がニンマリと笑う。
やれやれ。
ここではないどこか
体の脆さは受け容れよう。あきらめた。ここに置いたままで。
けど心の弱さは、同じようには割り切れない。
もし臓器移植みたいに体の中から心の弱さを取りだせたら、風船にでも詰め込んで、どこか遠くへ飛ばしてしまいたい。
僕の心はほとんど弱さでできてるから、空っぽの心になってしまうけど。僕が僕でなくなるだろうけど。それでもいい。
代わりに何を入れようかな。やっぱり強い心かな。
両親にありがとうと自然に言える強さ。
素敵だと思ったものを素敵だと言える強さ。
いつも前を向く強さ。
好きです、と伝える強さ。
今思いつくのはこんなとこかな。
あれ?書きながら思ったけど、こういうのって、少し頑張ればできそうな気がする。
まだ弱い心を取り出してないのに。風船に詰め込んでないのに。
僕の心は弱い、それは確実なはずなんだけど。でも、もしかしたらほんの少し、そうじゃないのかも。
もう少し、もう少しだけ、この体にこの心があるのを許してやろう。
君と最後に会った日
成人式で久々に集まった。
式が終わったあと、旧友十数人で食事会を開いた。
姿は確認していた。ただタイミングが見つからず、なかなか声をかけられずにいた。結局そのまま、食事会は終わった。
二次会でカラオケに行く、という事になった。目をやると、彼女は参加せずに帰るようだった。友人が行くぞ、と言ってきたが、不参加を伝えた。
帰宅者がバラけそうになったのを見計らって声をかけた。
なあ。
なに。 彼女が振り返った。表情に驚きはない。こちらが声をかけるのを予想していたのだろう。
久しぶりだな。
うん。
カラオケ行かないのか。
行かない。明日早いから。行くの?
いや。
そう。それで?なにかあるの?
彼女の冷静な声に戸惑ったが、それでも目的だけは果たしたかった。
これ、返すよ。 ポケットからピアスを取り出した。
まだ持ってたの?
ああ。本当は、最後の日に、卒業式の次の日だっけ、あのとき返そうと思ったんだけど、出来なかったから。
ふうん、と言いながら彼女は受け取った。
今さら返されてもさ、贈ったものなんだし。
でもそういうの初めて貰ったから。アクセサリー。どうすればいいかわかんなくて。
そう。 彼女はこちらをじっと見つめたあと、近くの排水溝に投げ捨てた。
驚きの声が出る前に彼女が、
あんたさ、生真面目過ぎ。だから悪い女に引っ掛かるのよ。 と言った。
もっとさ、気楽にしなよ。まだ若いんだし。
偉そうに。同じ歳だろ。
そっか。そうだった。 彼女が笑った。今日初めてみた笑顔だった。
じゃあ帰るね。
ああ。
カラオケ行ったら?たぶんみんな待ってるよ。あんたの音痴なミスチル。
うるさいよ。 こちらも笑顔が出た。何かがすっと消えて軽くなった気がする。
じゃあな。
うん。さよなら。お互い振り返った。
駆け足で友人達を追いかけた。