ささみ

Open App
5/9/2026, 11:20:11 AM

忘れられない、いつまでも。

 ——真珠。
 夜光が、おれを呼んでいる。まるで舞台の上でヒロインの名前を呼ぶときみたいな、甘くて、それでいてどこか挑発するような声で。少しだけ見上げる角度の眼差しは、逃がさないとでも言うようにまっすぐこちらを見ている。こんな風に呼ばれたことなんてないはずなのに、もう何度も聴いたことがあるみたいな。
(うわ、また夢だ)
 自覚した途端に意識が浮上して薄明るい部屋が目に入ってくる。昨日の夜、カーテンを中途半端に引いていたらしい。スマホの画面を見ると、そろそろ起きてないといけない時間だ。
(うう……なんであんな夢見ちゃうんだろう……)
 無駄なことだと分かっているけど、ぐしゃぐしゃと頭を掻いて、夢の中の音声と映像と消そうと努力する。しかし、今日はこのままじゃまずい。だって。
「おはよ、真珠」
「おっ……はよう、やこう」
 だって、今日はフロアのシフトが丸かぶりで、オープンからラストまで一緒なのだ。油断すると夢で見た夜光を思い出してしまって、注意力散漫になってしまう。案の定、ロッカールームで着替えをしている現在、忘れられていないわけだけど。
「き、今日、夜光もラストまでだよね? 戸締りとかおれがやるから、夜光は片付け終わったら上がっていいよ」
「……なんだよ急に」
「だって夜光、会社もかけもちしてて大変だし。それに」
 今朝の夢になんとなく後ろめたさとか気まずさを感じているのは、口が裂けても言えない。
「お前だってバイトもしてるだろ。今週は三連休だから変な気を遣うなよ」
 言いながらエプロンを締める手に、腕に、腰に。意識しないようにすればするほど、かえって目が行ってしまう。
「おっ……おれ!フロア掃除してくる!!」
「え、おい、真珠」
「お先に!」
 とにかく今は少しでも夜光から距離を取るしかない。身だしなみの確認は後回しだ。塵ひとつないくらいきれいに床を掃いて、ぴかぴかに机を拭いて。ゴミと一緒にこの雑念も捨ててしまえばいい。
 そうできる自信は、残念ながらこれっぽっちもない。

5/8/2026, 12:50:07 PM

「そうめんってどこにしまったっけ?」
 言いながら、真珠が食品が入っている棚の奥をがさごそと漁っている。しばらく食べてないから奥の方だろ、と声をかけるとまもなく、「あった!」と宝物でも見つけたような声で叫ぶ。たかがそうめんに可笑しさが込み上げて、ふはっと笑ってしまった。
「まだ早くないか、そうめんは」
「ええー、だって暑いし。五月だし! うちは五月になったらそうめん解禁なんだよ」
「去年も言ってたろ、それ」
 自分の言葉にはたと気づく。こうして生活を分かち合うようになって、もう一年経つのだということに。はじめはくすぐったかった「おはよう」や「おやすみ」が、当たり前になったのはいつ頃からだろう。
 たぶん来年も言うよ、おれ。そう言いながら鍋を用意する真珠の背中を、なぜか抱きしめたい気持ちをぐっと抑えた。

5/7/2026, 11:11:31 AM

「初恋ってなんだろうね、夜光」
「は? 何、突然」
 珍しく隣で静かにしていると思ったら、思いもかけない問いを投げかけられる。不思議に思って、読んでいた本を伏せてて真珠が見ていた本を覗き込むと、なんのことはない、『はつ恋』の台本を読み返している。
「なんでそんなもの読んでるんだ? 再演するってわけでもないよな」
「んー、なんとなく。初心に帰る? みたいな」
 そう言って、目を合わせもせずごろりと寝返りを打つ。確かに、初めてセンターを任されたこの演目は真珠にとって思い入れがあるもののひとつだろう。
 それきり言葉が続くことはなく、再び沈黙が訪れる。答えを急かしてこないところを見ると、本当になんとなく聞いてみただけなのだろう。そう、なのだが。
「……で、なんなんだよ」
「へ?」
「お前にとっての初恋って」
 掘り下げられるとは思っていなかったのか、大きな眼を二、三度瞬かせてこちらを見てくる。そして「うーん」と眉間に皺を寄せて考え始めたかと思うと、目を閉じて真剣に悩む様子を見せた。相変わらず、ころころとよく変わる表情だ。
 西陽を受けて頬に影を落とすまつ毛が揺れる。普通にしていたら見上げることしかないそれを、こうして見下ろすのにもずいぶんと慣れてきた。
 ぱっと眼を開くと同時に、「夜光」と名前を呼ばれる。なに、と応えが返ってくるのを、知っているような声色で。
「おれの初恋は、夜光」
 だから、他と比べて初恋がなんなのかなんてわからないや、と緩む頬を、照れ隠しに軽く抓ってやった。

5/6/2026, 4:49:40 AM

「君と出会って、人生が変わった」なんて。昨日観るともなくつけていたテレビでやっていた映画の台詞を突然思い出す。考えたらなんとも安っぽい言葉だ。
だけど同時に、そう表現するしかない人間がいるということにも気づく。俺にとっては、今まさに目の前でラーメンをすすっている男がそうだ。
誘われてなんとなく通い始めたレッスンを続けたのも。デビューの話が立ち消えた時にあっさり事務所を辞めたのも。消えた真珠を追いかけてスターレスに行って、会社勤めをするようになった今もまだ舞台に立っている。こいつがいなかったら有り得なかった人生だ。
「……夜光、なんか視線を感じるんだけど……おれの顔になにかついてる?」
「ああ……悪い。ぼーっとしてた」
誤魔化すように、テーブルの上の餃子に手を伸ばす。意識しているわけではないのに、ひとつ口に含んで咀嚼する間も、なんとなしに真珠に目が行ってしまう。空きっ腹に入れたアルコールが、思いの外早く回っているのだろうか。
ふと、視線をあげた真珠と目が合う。すこしだけ困惑したように「もう、なに?」とみせた笑顔に、こちらも思わずふっと笑いが漏れた。
「いや、うまそうに食べるなと思って」
一瞬きょとんとした顔を見せた後、「おいしいからね!」と言ってふたたびラーメンに戻る。
客同士の話し声、厨房から響く掛け声、換気扇の音、テレビのスポーツニュース。雰囲気もなにもあったもんじゃない、街角の中華屋だ。
(案外、こんなもんなのかもな)
「特別な誰かに気づく瞬間」なんてものは。