雨音に包まれて。
雨の日特有の異変が職場内に現れる。どこぞのタイミングで流行った『8番出口』のような異変。
通勤時間の朝のタイミング。僕よりも先に到着したらしい人々のせいだ。自販機や休憩スペース、廊下など。一応PCやプリンター、課ごとの島に対して配慮されているが、職場の雰囲気を乱しているには変わりない。
正体は、広げたまま置かれた傘の数々である。
たぶん、というか絶対。確信犯だろ。
傘についた雫を乾かしている。回り疲れたコマのように、コロッと。傘の布地越しに斜めになった支柱が覗き見える。誰が最初にやったか、よく知らんが、この異様なアジサイの傘は、雨が降るたびに増えているような気がする。
僕はその異様な傘の数に辟易しながら、傘立てに傘を立てに行く。そして、自席につく道のりにて、もう一度チラリと見た。
ここ、共用スペースなんだけど。
という、感想。異常。しかし、呆れたことに、もう慣れてしまっている。
コロナ禍みたいなものだ。内定を頂いたあと、初めてこの職場に来た時よりかは、マシになった。これが慣れというものか。
小中学生なら、傘の柄が華やかになるだろうが、ここは社会人の日常的空間。色合いは地味で、大きくて。燃えるゴミの日のごみステーションのように、くすんだビニール傘が置かれている。
あまりに異様さが際立ったのだろう。
先日、イントラネットでメールが流れてきた。
「床が濡れるし、湿気がこもるので、ちゃんと傘立てを使いなさい」
普段はひたすらに硬いWord文書なのだが、この時ばかりは清々しいくらいに文字の分量が少なかった。1枚の半ページも使っていない。職場内にてクレームが来たから対処したのだろう。「やれやれ」である。
効果はいかほどだろうか。この幼稚園児たちの多いビルが、雨音に包まれる日が少しだけ楽しみである。
美しい国、日本。
そんなスローガンを引っさげて総理大臣に舞い戻ったのは誰であろうか。うろ覚えであれば、それで結構。すぐに出てくるのであれば、もう忘れたほうが良いのではないか。
当時も、辞任した後も、数年後の惨劇も。すべて含めてみても。「ったく、どこが『美しい国』だ」と嘲りの笑いを持った人は、きっとその人自身の目が腐りきっているのだろう。色眼鏡どころか、まつ毛も角膜も濁ってしまって、誰が誰だかよく分からない。水晶体にヒビが入ってしまっている。
先日、任天堂Switch2を取り上げたネットニュースがあった。転売ヤーによる価格釣り上げ祭の影響がある。対策しなければ、子供たちに……、欲しい人に……渡らない。ゲームは人の手に渡って娯楽になる。その前に、転売ヤーの玩具にされたら、娯楽にならない。
そんな世間の論調に対し、有名人は語る。
「いや、転売ヤーだって小売の一種なんだから合法だろ。まあ、俺は今すぐ必要じゃねーから、Switch2の価格とかどうでもいいけど」
「うわっ、正論おじさんだ!」と僕は思った。
相変わらず冷ややかな目を、ここぞとばかりに投げかけている。コメンテーターとしては正しい意見ではある。正論だからだ。
正論とは、被害者の気持ちを汲み取らない冷や水のことである。例えば野球特有の駆け引きがあって。投手がデットボールを投げてしまいました。
あーっと、これはどういうことか。手元が狂ってしまったか。実況席はちょっと心配げに中継する。しかし、ここで、
「いや、デットボール投げるくらいなら、ストライクど真ん中を投げた方が良いに決まってるでしょ」
こんな現場に冷や水を浴びせるような意見を聞いたら、「いやいや……」ってなりますね。
なぜかと言えば、書いた通り、野球特有の駆け引きがあって、手元が狂ってデットボールに……という流れですから。
正論って、実際の試合は見なくても言える意見ですね。そして、正しいけど事実に即していない。状況把握の理解を捨てた意見が正論です。
「試合見てたか? ルール分かっとるんか? お前、野球の駆け引きの何たるかが分かっとらん。」
投手が一体何の球種を投げようとしたか、葛藤があって「あっ」となった。その論点から一番遠ざかり、さらに論点ずらしまでやっていく。これはデットボールよりも悪い大幅なボールではないか。
それに違和感なく「そうだそうだ! バッターに謝れ!」と迫る同調者も、同じくらいズレている。きっとこれらは冷酷・冷笑主義。
こんな奴らにはなりたくない。なぜならポテチばかり喰ってぶくぶくお腹で不健康で、何の努力もせず威張ってばかりだからだ。
「たく、どこが『美しい国』だ」
うるせぇ。顔洗え、歯を磨け、髪洗え。
部屋片付けろ、ボロい服着て仕事しろ。
なに、そんな努力、もうやってる? なら、低賃金同士仲良く悪態つこうぜ。今の首相はダメだダメだってな。
どうしてこの世界は
少し前から哲学をかじっている。
一番わかりやすく、世の中の人口に膾炙しているのはデカルトらしい。「我思う、故に我在り」で有名な奴だ。
私たちは「勉強しすぎ、仕事しすぎ」を正当化しようとして「忙しい」という病=無我夢中、労働過多、思考過多になっている。座ってボーッとして、何もしないのは時間の無駄、自分の人生に対して無責任だ。休憩は思考が中断するので非効率。そう思い込む。
思考があって行動を生むので、「我思う。故に我在り」のデカルト的思考論を基準とした「我行動する、故に我在り」が現代社会の行動論になっている。
常に何かしないといけない……と思い込んで、自分を苦しめている。この行動論の逆は「我行動しない、故に我なし」だ、これが若者の無気力症候群や軽度うつを生んでネガティブ思考を生んだり、自殺しようと企図する。
こんな感じでデカルトのことは軽くかじったので、次の哲学者をかじりに行こう。……なんでこんな簡単な内容、どこにも書いてないわけ? 腹が立つ。
君と歩いた道は、世間にとっては無名である。
通学路という名の無名。
その道中、駅の北口付近でイベントを目撃した。
それは、線路の向こう側へ行こうとする悪ガキたち。
今ではちょっとどころかどこにも見かけない。授業をサボり、校舎の片隅でワルをやって、吸い殻を足で踏み潰して消している連中だ。生徒指導の先生に見つかったら、しょんぼりするどころか蹲踞の格好で悪態をつく。学ランのボタンは全開、黒のスラックスはだらだら。学校というものをバカにした未開社会の文明だった。
そんな不良に憧れた中学生が、5人くらいの徒党を組んで、道路と線路を区切るフェンスを乗り越えようとする。
あっ、と僕も思った。君も思っただろう。
けれど、止める間もなく、入って注意を呼び止める仲でもなく、距離もなく。いわゆる危ない香り、臭いラフレシアには億劫だったから、そのままにした。
手慣れたやつが先に入り、「おい、早くしろよ」とくすんだ緑のフェンス越しに徒党を急かす。小柄の坊主がフェンスの網目に絡まって、手足が引っかからずにガシャンと鳴った。それを怒るどころか喜んでいた。たぶんきっと。怒られるかもしれないことに欲求不満だったのだろう。
若干躊躇したが、10秒以内に踏破した。それからは、マリカーの「カラカラさばく」のステージみたいに、線路を通って近くのホームへ走り出す。無銭乗車。改札を通らないヤツら。
降りる時はバレると思うが。きっと怒られるだろうなー。と思いながら、無名の通学路を青春色にした。
夢見る少女のように
本日も晴天なり。けれど心は曇天なり。
お外に出たほうが良いと思うけれど、そういう気分にならない日曜日。
2週間前に風邪をいわして、ちょっと咳が出ている。
昨日コミュニティで会話をしたせいで、喉が若干痛い。昨日町なかぷらぷら散策をして、13000歩以上歩いたらしい。休日でこれは、大したもんだ。と褒め称える。
身体を疲れさせて、泥のように眠る予定だった。
けれど、どうしてか眠れず、精神的夜更かししたために起床はズレて午前中は二度寝の餌食。
十年以上活躍している、現役の扇風機のモーター音が始終ひびく。首振りにすると、余計人工的な風が強まり、それに当たると僕は予後不良の馬みたいになってしまう。
規則正しいリズムより、できることなら自然な風に当たりたい。そして放熱したい。
でも、だからといって、直あてにしたら肌がかさかさ乾燥しちゃう。誰かがアドバイスしたように、壁打ちの視点。壁に当てて、入射角反射角通りに扇風機の風を部屋中に循環するようにしている。
夢見る少女のように横たわっている、130センチのしろ◯ん。それを抱いて、週末の時間を溶かしっぱなしだ。でも、いいんだ。これで。
と思うことにした。みんなはスマホに取り憑かれて、余計にストレスを掛けている。明日という週明けを知らせる月曜日に背を向け、怯えている。
それよりか、ずっとマシ。
だらだらしながら、ネットで、お題を調べていた。
「いつまでも夢見る少女のままじゃいられないよね、私たち」
夢は、どこからやってきて、どこに消えて、何を消費させるのか。その答えを探すように、再び三度、夢のなかに誘われる。読書していた本のタイトルは「抽象と具体」。