「どこへ行こうというのかね」
サングラスをかけた一般金髪男性は言った。
……というのを思いついたのだが、明らかに筆に馴染まないので空から投げ捨てた。目元を手で覆い、名シーンを彷彿とさせる。何か戯言を呟いて、眼下の大海へ堕ちていくのだろう。
なんてことはない。この人をプラモデルか何かだと見れば、感情論は身体の中で抑えられる。
さて、僕はどこへ行こうかな。
すべきこと、やりたいことはあるけど、操舵手を引き受けた割には行きたい場所、会いたい人はいないかも。
風光明媚の眼下を見るに、今は太平洋の上空だ。時々小群の島々が小さく見える。
ずっと上昇気流に乗っている。
それはとても良いことだ。しかし、どこかで平行にならなければ、この飛行船は宇宙船にならなければならない。それは、死を意味したり、一種の精神生命体に昇華することになる。それだけは嫌だ、と舵を掴もうとした。しかし長い間、そのままになっている。
big love!
また現れたか英語のお題。
忘れた時に現れるな、まったく。
15個に1個は紛れてるんじゃないのかという頻度ですな。
でっかい愛なのか、大きい愛なのか、深い愛情なのか。
知らんが、英語のお題だと最初に翻訳しないといけないのが面倒なところである。
多分、翻訳の程度により、解釈が変わる奴だ。
解釈が変わることを楽しもうぜという、国際的メッセンジャーも感じる。僕の気のせいかもしれない。
気の所為ついでに気の所為にする。
面倒という所で派生していくと、世の中にはめんどくさい奴がいるらしい。君たちは海のような深い愛情で、個人の見解主義の僕を許してほしい。
ネッ友という、得体のしれない関係がある。
自己紹介を書く動機がネッ友を募集すること。その際、最近はプロフィール欄に性別不明というのを書いてくる子供が増えてきている。
そういうのはな、書いてもいいし書かなくていい。項目として記載しなくてよい。こう書くと「性別:非公開」とか書いてくる。実際現れている。非公開を辞書で引くことをお勧めする。反応しないが。
お生憎様、ネット上における性別とか、どっちでもよい。あのな、ネットなんだよ。文字でやり取りするんだよ。だから「ネカマ」とかが出来るのだ。
ネットワークを介して伝達されるのは文字であり、文字数によって世界地図は構築される。誰もお前のことなんか気にしてねぇのよ。という自意識過剰になるだろうか。類語辞典的には、中二病の段階。
義務教育ばかりの日常を送っていると、義務ばかりで出来ていると低年齢らは思っている節がある。
あえて言及するなら、情報を隠すことが義務である。個人情報、秘匿情報、プライバシー、センシティブ……
別に難しい物でもない。文字なのだから、書かなければ良い。なのに、奴らは自己紹介の時点でミスっているのだ。
奴ら=学タブを使っている小中学生のことだが、すべてを公開してこようとしてくるだろう? 親密になればなるほど、その傾向は強まる。
センシティブ情報を適当に扱っているのが本人だなんて、ちょっとアレだ。触れない方が良いタイミング。示し合わせれば形の違う、しかし愛情の範疇。
ネットワーク=big love!
ささやき
「おい、更新止めちまえよ」
という声が、3ヶ月以上前から聞こえているのだが、無視して更新し続けている。
しかし、無視は無情にも無理を来してしまったのだろう。
ちょっと文章がおかしくなっているように思える。お題をいったんお預かりして、数日後にまとめて消化することもままある。このお題は4/22に出されたものだが、こなしたのは05/03。1週間以上寝かしてからの執筆てある。書くことは当時から決まっていたのだが、「おい、更新止めちまえよ」というささやきをモロに聞いてしまったようだ。
書く習慣はついたのだが、そろそろ義務感が出始めてきた。どうやら、アウトプット自体、疲れてしまったようである。
七月まであと3ヶ月ちょいといったところである。
七月で、ちょうどこのアプリを初めて一年。
一年で、お題が一周するという噂があったのだが、八カ月辺りで一部お題(3個ほど)が重複出題される傾向にあった。また、新傾向として、英語のお題が出されるようになった。
ともかく、冒頭のささやきに耳を傾けてしまうのである。もうちょっとの間、しぶとく生き残ることにする。こうして続けているというのは、意外とお題をみるのはちょっとした楽しみであるからだ。
星明かりは日を追うごとに、年を追うごとに空から消えてなくなってきている。周りが明るいからそうなのだっていうけれど、本当は目に届く灯火が、消失していくのは物悲しい。
SNSサイトのトレンドを見ると「小学生 自殺」があった。トップクラスの位置に食い込み、様々な人が賛否両論をしている。
この場合、たいていグラフを乗せずに、決めつけたように言う。文科省のホームページに行って、小中高学生の自殺総数を見ながら、何を知った口を聞いているんだ、と思う。そのまま小学生の自殺数にすり替えている様子だ。小学生の割合は、十分の一も無いくらいなのだ。
「そう、星明かりの数くらい……」
目に見える数値。
目に見えない数値。
それらをそのまま覆い隠す不穏なる光、街灯は夜になっても消えない。その理由を問う学生も、見えないだけでどこかにいるのだと思う。
影絵
先日板橋区立美術館にて『エド・イン・ブラック』展なるものがあった。SNSで、誰かがリポストされた本美術館の宣伝ポストをみて、「黒ってかっこいい」とか思ったのである。
黒から見ていく浮世絵・江戸絵画、という感じである。
黒い色彩で夜や闇、影を描き出すことに、何ら不思議はなかったのだか、この絵画展で面白さの理由がちょっとクリアになった。
本来、夜は見えないのである。
黒に塗りつぶされて、ではなくて、明かりがあるから周りが夜だとわかるのである。この感覚を説明するのは難しい。色彩を感じるな。今すぐに明かりを消して、夜を感じろ。というわけにもいかない。室内に入る夜の振る舞いが、都内だともう明るすぎるからだ。
自然林にぽつんと一軒家。そんくらい現代から取り残された生活が望ましい。風の寝息が聴こえるくらい、音もないのが良い。電波もない方が良い。無いな今。
風というのがポイントらしい。今のように、風の動きで邪魔されない毅然とした光ではない。ロウソクの小さな炎なのだ。だから、息を吹き消して消灯するといった、風の動きが関連するのだ。
女の息遣い。火を吹き消す情景……。
かつて平安や室町などの上流貴族たちが、室内の微かな灯りで急いで手紙を読んだり、本を読んだり。山車のそばに付けた行燈(歴史詳しくないから用語分からん……)など。目的に応じた必要最低限の光(炎)のみおこしていた。灯りは揺れる。闇討ちとか。山から降りてくる夜行性肉食動物たちのリスクとかもあったと思う。
一方庶民は、太陽の陽の光とともに生活リズムが決まっていた。明かりを灯すこと自体贅沢。日が沈んだら就寝し、日が昇ると起きる。このように早寝早起きは庶民の生活から来ている。今は上流貴族たちのように、夜更かしするのが主流。
それじゃ、夜の風景とか、どう感じ取っていたというのだろう? 灯りがないなら真っ暗じゃないか。月明かりがあろうとも、全景が明るい訳ではなく、多分に芸術家の想像を加味されている。
ディテールは昼の時。色彩は夜の時。
それを紙面上にて重ね合わせている。今のように動画や写真、画像なんてなかったのだ。だから、脳内でやったのかな。いや、下書きは昼の時に描いて、で、夜の風景は目に焼き付けて、翌日描く。一発描きみたいなものだから、覚えがない部分はまた夜を見て翌日……というのは凡人の発想だな。
今の当たり前とは、如何に明かりが灯されているかである。夜=黒とは、簡略化されている。普段夜と感じていないからだ。赤を見て太陽を連想するように、黒を感じて夜を想像しているに過ぎない。
影絵は江戸時代くらいにできたっぽい。
影は、地面にできるものだと。光が落ちる途中で物体に当たることで、本来到達するべき光の軌跡から地面との交点まで影ができる。日向、日陰の境は曖昧で、そこに黄昏時の、異界の門が覗く。
その常識を逆転させたものが影絵だ。光の前にいくつかの物体を動かすことで、回りくどいことをする。
輪郭にこだわらないと、影は影絵として成立しない。
黒一色の影絵で見たら遜色ないのに、実際見たら異界の住人。そんな異界要素を動きの芸術品に仕立てる。黒って面白い。