22時17分

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影絵

先日板橋区立美術館にて『エド・イン・ブラック』展なるものがあった。SNSで、誰かがリポストされた本美術館の宣伝ポストをみて、「黒ってかっこいい」とか思ったのである。
黒から見ていく浮世絵・江戸絵画、という感じである。
黒い色彩で夜や闇、影を描き出すことに、何ら不思議はなかったのだか、この絵画展で面白さの理由がちょっとクリアになった。
本来、夜は見えないのである。
黒に塗りつぶされて、ではなくて、明かりがあるから周りが夜だとわかるのである。この感覚を説明するのは難しい。色彩を感じるな。今すぐに明かりを消して、夜を感じろ。というわけにもいかない。室内に入る夜の振る舞いが、都内だともう明るすぎるからだ。
自然林にぽつんと一軒家。そんくらい現代から取り残された生活が望ましい。風の寝息が聴こえるくらい、音もないのが良い。電波もない方が良い。無いな今。

風というのがポイントらしい。今のように、風の動きで邪魔されない毅然とした光ではない。ロウソクの小さな炎なのだ。だから、息を吹き消して消灯するといった、風の動きが関連するのだ。
女の息遣い。火を吹き消す情景……。
かつて平安や室町などの上流貴族たちが、室内の微かな灯りで急いで手紙を読んだり、本を読んだり。山車のそばに付けた行燈(歴史詳しくないから用語分からん……)など。目的に応じた必要最低限の光(炎)のみおこしていた。灯りは揺れる。闇討ちとか。山から降りてくる夜行性肉食動物たちのリスクとかもあったと思う。
一方庶民は、太陽の陽の光とともに生活リズムが決まっていた。明かりを灯すこと自体贅沢。日が沈んだら就寝し、日が昇ると起きる。このように早寝早起きは庶民の生活から来ている。今は上流貴族たちのように、夜更かしするのが主流。

それじゃ、夜の風景とか、どう感じ取っていたというのだろう? 灯りがないなら真っ暗じゃないか。月明かりがあろうとも、全景が明るい訳ではなく、多分に芸術家の想像を加味されている。
ディテールは昼の時。色彩は夜の時。
それを紙面上にて重ね合わせている。今のように動画や写真、画像なんてなかったのだ。だから、脳内でやったのかな。いや、下書きは昼の時に描いて、で、夜の風景は目に焼き付けて、翌日描く。一発描きみたいなものだから、覚えがない部分はまた夜を見て翌日……というのは凡人の発想だな。

今の当たり前とは、如何に明かりが灯されているかである。夜=黒とは、簡略化されている。普段夜と感じていないからだ。赤を見て太陽を連想するように、黒を感じて夜を想像しているに過ぎない。

影絵は江戸時代くらいにできたっぽい。
影は、地面にできるものだと。光が落ちる途中で物体に当たることで、本来到達するべき光の軌跡から地面との交点まで影ができる。日向、日陰の境は曖昧で、そこに黄昏時の、異界の門が覗く。
その常識を逆転させたものが影絵だ。光の前にいくつかの物体を動かすことで、回りくどいことをする。
輪郭にこだわらないと、影は影絵として成立しない。
黒一色の影絵で見たら遜色ないのに、実際見たら異界の住人。そんな異界要素を動きの芸術品に仕立てる。黒って面白い。

4/20/2025, 9:32:49 AM