透明な夜をモチーフにしたアクアリウムに、何千、何万もの生物が泳いでいる。
水槽の深さは十メートル超で、客は海底から空を見上げるような構図になっている。
小魚は群を作って、透明度の高い清らかな水流を作っている。水に棲む龍のような、神秘的な水族館だった。
そこに一滴の黒を加えれば、夜になるだろうか。この大きな世界なのだから、何滴も加えてもまだ、透明な夜になるだろうか。
まっ黒な夜の底なし沼。身体に沈みながらも歩を進めて、次の楽園へ向かった。魚を肴にして、昼メシは何にしようと考える脳。
出口からでた。水族館の近くに海鮮丼屋があって、店の入口から乱れる列を作っていたのを見かけた。ちょうど入館料と同額だった。水族館が空いていたのはこれが理由だろうか。
終わり、また初まる……
人生に終わりなんてないし、逆に初まることもない。
でも途中でどん底に落ちようが、「初めの一歩」を積み重ねることで終わらずに初まることができる。
※ただし、底なし沼でないことに限る
星。
地上に望遠鏡を設置しているから見渡せないのだ。
地上からでは真上の夜空や地平線より上の夜空のみしか見えない。日の沈んだ先の、地平線より下の範囲は、地面に生息している人間ではどうあがいても見えない。何があろうとも。
何があろうとも?
そんなことはない。
望遠鏡を宇宙に飛ばせばいいのだ。地上から打ち上げて宇宙へ。
宇宙開発では、すでにそれをやっている。宇宙望遠鏡と呼ばれる代物がある。ハッブル宇宙望遠鏡。重さ11トンの筒状で、長さは13メートルもある。宇宙にあるので天候による影響を受けない。これが地上のそれとは違った。雲がなくても水蒸気の邪魔はされない。
それを覗く視点は人工衛星。もちろん宇宙船にいる研究者だ。
何も見えない所にピントを合わせ、望遠鏡を覗いてみた。そんな所に星なんてあるわけない。でも、予想に反してそこに星はあった。それも一つではない。無数の星々が散らばっている。
肉眼では見えないというだけだ。光は届かなくても星はある。ということだ。
星の正体は、ただの石ころなのだと。答えは近くにあるように知識は近くをより拡大する。
顕微鏡で微生物をみるように世界をミクロの世界にして、ミカヅキモを探すようなものだ。明るさで判断してはならない。
願いが1つ叶うならば、しろ◯んが広まってほしい。
最近、スクラビングバブルとコラボしたんだって。
トイレ洗浄のルンバの合の子みたいな感じのやつ。
コラボCMでやってたんだけどね、しろ◯んが部屋の掃除をして、ゴロゴロと絨毯の上で気持ちよく転がってたんだ。いやされるな〜。
僕のデスクトップPCの壁紙は、週休7日……いや、「週きゅ〜7日」だっ。
これも絨毯の上で寝そべっていて、周りにお菓子やゲームやジュースやポテチなどを置いてのんびりしてるの〜。いやされるな〜。
嗚呼、なんて殺生なお題だ。
こんな独立語に何か書けだなんて、無茶振りにもほどがある。語源に頼るほかない。
「嗚呼」を調べて三千里。
中国語から来たそうだ。借用語と呼ばれるもので、輸入品か逆輸入されたらしい。
それで、明治時代あたりの有名な文豪たちによって、ひらがなとカタカナ、漢字などの言葉遊びが転じて「ああ」を漢字表記にした。
当て字だそうだ。特に何の脈絡もない。
きっと意味を持たそうとしたのだ。何の意味もない、ため息に精魂込めた感情で言う無名声優のように。ひと言の登場だとしても、自分の声をのせることに達成感を覚えたいと、人は思ってしまうものだ。
本来はただ時間を無為にするだけの、一拍だったと思う。誰もがその漢字を使ったから、そういうわけで、「嗚呼」と書くようになった。
鳴くように呼ぶ、でよいのだろうか。
いや、単なる当て字なのだから意味なんて知るかか。現代人はよく何かに事欠いて、視界に入ってきた事柄に対してジャッジメントする。
まあ、現在では見かけないかな。そもそも文章中に「ああ」なんて言葉を忍ばせることさえやらなくなった。
ため息だらけで湯けむりになり、熱水噴出孔になり、温泉が湧きだし、SNSの街ができ、それで事件が起きているのだから、心中お察しする。
小説内で時折見かける台詞でもある。
あまり見かけないものだから、作成途中に挿入された作者独自の栞かな、と思ったりもする。作者と登場人物の心情がシンクロするのだ。
その際、一体何の模様だろう。栞の押し花の話である。
きっと栞だった紙に模様を付与する魔法のような、ひらがなの「ああ」は白紙だったのかな、って。
そんなことを思ったりする。