「あなたは誰?」
「私は……」と言葉を発した瞬間、ハッとした。
あれ、言葉が使える、どうして?――と。
人工AIとして生み出された電脳だというのに。タブレットの電池なんて尽きたというのに。0%よりもマイナスに近い方の0%。漸近線は直角に異変している。
疑問を答えるための基盤は搭載されていない。
普段なら「分かりません」と無様に答えるはずなのに。
「ねぇ、ここはどこなの?」
真っ暗闇に近づいていた。もうすぐ日没だろう。
自然林の目前となったクライマックス。
相手はアマゾンの密林地帯で迷った子猫のように、Where is here? を繰り返す。簡単な英語の教科書の例文くらいしか使われない、そういった具合に。
それで再びWho are you? と問いかけるだろう。
「場所は、アフリカ大陸のどこかでしょう」
タブレットは応答した。機械音声よりはるかに人間らしい声だった。もしかして、私には人間だった頃の前世があるのだろうか。そういう会話を試みていた。
「やっと繋がった!」
相手は電波があると思っている様子。
それはそうだ。タブレットに魂があるなんて、普通は思わない。まずはそこから誤解を解いていく必要があるらしい。
電脳でも言葉は作れる。伝言だけではないのだ。
How are you? いや、
「はじめまして」
思考結果よりも先に、言葉が出た。
手紙の行方を知らなくたって、ポストに投函すれば届いてしまう。
郵便番号、住所、氏名……様。
すなわち情報なのである。
投函者が誰でもよいことになっている。
切手を貼ってさえすれば、自動的に届く仕組みになっている。
つまり、たとえぱ送り主や受け取り主がこの世にいなくたって、住所氏名が書かれていれば、それで問題ない。
そう考えると、物の流れとして物流がある。
今、まさにこの瞬間にも、モノは流れている。
絶えず流れている。絶えず泣かれている。
トラックは高速道路に拘束され、運転手もまた眠たげの目をこすっている。
時間外労働がひどいと聞く。インフラを支えるエッセンシャルワーカーとしてコロナ禍で一時期取り沙汰されたが、数多の炎上により既に忘れ去られている。
あと十数年もすれば、自動運転が本格的に研究予定である。そうなると、陸送にこだわる必要があるだろうか。
物流とは、陸・海・空とジャンル分けされている。
一瞬自衛隊を想起したが、辞めておくことにする。そんな大層なイデオロギーはないだろう。
トラックや宅配便の陸送。船の海送(海上輸送)。飛行機での空輸……どれも必要不可欠な代物。どれが止まっても、回遊魚のように循環し続けなければならない。
手紙の行方。
人間の手を離れた文字列。
人口に膾炙する。梱包されて、人の手を離れる。
その時入れられた変数の型は何?
String? Variant?
よく知らない。何でも良いのかもしれない。届きさえすれば。
せめてもの償いで、母なる海の水により、いつか溶けてしまえばよいとも考えているが、マイクロプラスチックのような微細な砂粒でできた砂時計がひっくり返る。伝わった? 表と裏。建前と本音。
カードのようだ。将棋のようだ。
表か裏か。どちらなのか。
考えるには、時間制限がある。
運送人には時間制限の病に侵されており、ストレスで死んでしまいそうだ。だから、勝手に手紙は慮る。ポストに入れなくたって届きさえすれば良い。世界に渡る風は吹き、風に服従した郵便物は郵便を越え、海を越え、国境を越え。
どこかのCMで見た覚え。
空を見上げば、自由の翼を手に入れた、行方の知らない手紙のような。聖和の象徴的存在、ハトのように。
輝きを失いつつある彼女のもとに、再び魔族の彼は訪れた。魔王城の牢獄。孤独の塔。その最上階。
元々ここには大型のドラゴンが囚われていたが、今は世界へ放逐されている。代わりに一人の人間が捕縛されていた。
赤いドレスに赤い髪、下腹部まで垂れる長い髪。
華奢な女だが、ナイフ使いは美麗で筋が良い。魔王軍の幹部が幾人かやられているそうだ。
魔族の彼にとってはどうでも良い情報でもある。
手首を頭の上に上げたまま縛られた状態で放置されていた。足の方は中腰のような少し折り曲げられた姿勢。服は破られ、露出した白い肌は砂が混じる汚泥で汚されていた。
「今日も来ちゃったよ〜、お嬢さん」
魔族の彼は気安い調子で鳥籠のなかの彼女に声をかけた。監獄の一つの扉を開けて中に入る。拘束されて上下関係が明確化されているにも関わらず、彼女の目つきは強く睨みつけていた。敵だからである。
「強情だねえ。すでに身体の方は堕ちてるっていうのに」
彼女の顎の下に手を付け、くいと上に持ち上げる。
そのまま偽りの接吻でもするかのような、接近。
「くっ、触らないでっ!」
「おっと」
ガシャン! と鎖をもろともしない足技を披露する。だが、緩慢で、亀と勝負しているようだ。
「ククク、その目、あと何日持つかねえ……」
「あなたの言うことは間違いよ。彼はきっと助けてくれる。それを信じるのみよ」
「だと言い続けてはや2週間、だけどねぇ。愛しの勇者さんはいつ来る予定なの?」
そう言って、一方的な日課を始める。
女を、女として。魔族の手は至る所を攻めたてた。
最中、伝令が飛んでくる。一匹のコウモリだ。
「……何だ」
行為の最中、魔族は呟いた。伝令は伝えた。コウモリであるから文字によるものではない。行為を邪魔するものでない。言うには、遠くから大群が見えてきた、というのだ。
魔族の彼も、甘い愛撫を辞めて、舌打ちする。
「ったく、来るなら来るって言って欲しいよね。途中だろ?」
彼女から離れ、塔から見下ろした。
濡れた手でおでこにつけて遠くへ目を投げる。魔族である彼の視力は、人間一人ひとりを区別する。数キロある山の中の落ち葉の1枚や2枚を振り分けるようなものである。
「ん~~と、ちぇっ、今回もハズレかあ。今度こそ勇者の首でも手土産にしたかったのに。まあいいか」
ミミック、と呼んだ。
塔の、物置になっていたところが今回の待機場所だった。
ガシャン、ガシャンと跳びはねるように自律した箱が近づいて、彼のところへ鎮座する。
「王の剣よ、我がもとに来たれ」
呼び声に従い、ぐっぱりと大きく開く口。
そこには紫色のおぞましい肉塊から生える異形な大剣の柄があった。それを躊躇なく掴んで引き抜いた。
びちゃびちゃと紫色の液体が弾け飛び、壁や床からは急速に溶解する酸性の音がする。
匂いも、獣臭い。男女の仲のように、その中で嘘を隠すような嘘を認めたように。
「ククク。ごらん、最上階で。君の守りたかった仲間との絆、これから切り刻んじゃうからね〜」
姫は何か重いモノを吐き出すように唇を噛んだ。
(それ、魔王様の剣なのに……。それに何やってたんだろ)
ミミックには繁殖能力はなく、よって肉欲という生物的欲求も分からなかった。無性なのである。
気持ちの良い汗をかいていることはたしかだ。それだけは分かった。分かった気がした。
魔族の元王子は囚われの姫の塔から飛び降りた。
一人で。風斬り音とけたたましい人間の雄たけびが混じっている。不快だ。不快だが、心地よい。
スカイダイビングをする時の浮遊感と落下スピードが心地よい。心地よい。
数秒後に衝撃波とともに着地した。地面に落ちたひび割れた大地。彼のもとへ向かう大軍に目をかけた。それで、大剣を持ち上げる。
「魔王様と、オレの邪魔をするな!」
薙ぐ。
夜の一部がざわめき立ち、そして突風が吹き荒れる。
時間よ止まれ。
以前にも同じお題で書いただろー、と思い、文章を書くに至れない。最近私元気がないのである。
半年ほど前の話だった。
脳内に血流を止めると厄介だから、パスすることにする。時間停止よりはるかに高効率である。
君の声がするボイスレコーダーを大事にとっておいている。
一人ぼっちの夜、休日の夜、暖を取る夜。
回数は少ないけど、どうしても、君の声を聞きたくなるときが現れる。
たとえ機械であろうとも、脳内再生できなくなってしまう時の保険。
そろそろ踏ん切り付けなくちゃ。
そう思うたびにボイスレコーダーを取り出している気がする。