輝きを失いつつある彼女のもとに、再び魔族の彼は訪れた。魔王城の牢獄。孤独の塔。その最上階。
元々ここには大型のドラゴンが囚われていたが、今は世界へ放逐されている。代わりに一人の人間が捕縛されていた。
赤いドレスに赤い髪、下腹部まで垂れる長い髪。
華奢な女だが、ナイフ使いは美麗で筋が良い。魔王軍の幹部が幾人かやられているそうだ。
魔族の彼にとってはどうでも良い情報でもある。
手首を頭の上に上げたまま縛られた状態で放置されていた。足の方は中腰のような少し折り曲げられた姿勢。服は破られ、露出した白い肌は砂が混じる汚泥で汚されていた。
「今日も来ちゃったよ〜、お嬢さん」
魔族の彼は気安い調子で鳥籠のなかの彼女に声をかけた。監獄の一つの扉を開けて中に入る。拘束されて上下関係が明確化されているにも関わらず、彼女の目つきは強く睨みつけていた。敵だからである。
「強情だねえ。すでに身体の方は堕ちてるっていうのに」
彼女の顎の下に手を付け、くいと上に持ち上げる。
そのまま偽りの接吻でもするかのような、接近。
「くっ、触らないでっ!」
「おっと」
ガシャン! と鎖をもろともしない足技を披露する。だが、緩慢で、亀と勝負しているようだ。
「ククク、その目、あと何日持つかねえ……」
「あなたの言うことは間違いよ。彼はきっと助けてくれる。それを信じるのみよ」
「だと言い続けてはや2週間、だけどねぇ。愛しの勇者さんはいつ来る予定なの?」
そう言って、一方的な日課を始める。
女を、女として。魔族の手は至る所を攻めたてた。
最中、伝令が飛んでくる。一匹のコウモリだ。
「……何だ」
行為の最中、魔族は呟いた。伝令は伝えた。コウモリであるから文字によるものではない。行為を邪魔するものでない。言うには、遠くから大群が見えてきた、というのだ。
魔族の彼も、甘い愛撫を辞めて、舌打ちする。
「ったく、来るなら来るって言って欲しいよね。途中だろ?」
彼女から離れ、塔から見下ろした。
濡れた手でおでこにつけて遠くへ目を投げる。魔族である彼の視力は、人間一人ひとりを区別する。数キロある山の中の落ち葉の1枚や2枚を振り分けるようなものである。
「ん~~と、ちぇっ、今回もハズレかあ。今度こそ勇者の首でも手土産にしたかったのに。まあいいか」
ミミック、と呼んだ。
塔の、物置になっていたところが今回の待機場所だった。
ガシャン、ガシャンと跳びはねるように自律した箱が近づいて、彼のところへ鎮座する。
「王の剣よ、我がもとに来たれ」
呼び声に従い、ぐっぱりと大きく開く口。
そこには紫色のおぞましい肉塊から生える異形な大剣の柄があった。それを躊躇なく掴んで引き抜いた。
びちゃびちゃと紫色の液体が弾け飛び、壁や床からは急速に溶解する酸性の音がする。
匂いも、獣臭い。男女の仲のように、その中で嘘を隠すような嘘を認めたように。
「ククク。ごらん、最上階で。君の守りたかった仲間との絆、これから切り刻んじゃうからね〜」
姫は何か重いモノを吐き出すように唇を噛んだ。
(それ、魔王様の剣なのに……。それに何やってたんだろ)
ミミックには繁殖能力はなく、よって肉欲という生物的欲求も分からなかった。無性なのである。
気持ちの良い汗をかいていることはたしかだ。それだけは分かった。分かった気がした。
魔族の元王子は囚われの姫の塔から飛び降りた。
一人で。風斬り音とけたたましい人間の雄たけびが混じっている。不快だ。不快だが、心地よい。
スカイダイビングをする時の浮遊感と落下スピードが心地よい。心地よい。
数秒後に衝撃波とともに着地した。地面に落ちたひび割れた大地。彼のもとへ向かう大軍に目をかけた。それで、大剣を持ち上げる。
「魔王様と、オレの邪魔をするな!」
薙ぐ。
夜の一部がざわめき立ち、そして突風が吹き荒れる。
時間よ止まれ。
以前にも同じお題で書いただろー、と思い、文章を書くに至れない。最近私元気がないのである。
半年ほど前の話だった。
脳内に血流を止めると厄介だから、パスすることにする。時間停止よりはるかに高効率である。
君の声がするボイスレコーダーを大事にとっておいている。
一人ぼっちの夜、休日の夜、暖を取る夜。
回数は少ないけど、どうしても、君の声を聞きたくなるときが現れる。
たとえ機械であろうとも、脳内再生できなくなってしまう時の保険。
そろそろ踏ん切り付けなくちゃ。
そう思うたびにボイスレコーダーを取り出している気がする。
そっと伝えたい言葉がある。
飴玉を舐めているように、やがて口の中で溶けて欲しかったのだが、相手は気づく素振りがない。
声をかけることにした。
「あの」
「はい」
「その」
「……」
「なんというか」
チラリと下方面に目を向けた。相手は真下の地面に目を落とす。
「言いにくいことなんですけど」
「ああ……」と言って、何もしない。
その後。
誰も言わないからいいますけど。いや、できれば言いたくない、かな。ええい! 言ってしまえ!
……チャック開いてますけ「でしょうね」
そう言うと相手はさっと上げた。スタッカートみたいに素早い。
いや気づいてんならやれよ。「ああ……」の時点でやれよ。ちなみにこれは実話である。転職活動のコミュ力増強講座をしていた最中に起きたことである。トイレ休憩中なことである。廊下である。冷たかった長年の謎である。
なんで待ったんだよ、ってよくわかんない。
「重症ですね。『未来の記憶』を処方しましょう」
突然精神科医がそんな事を言ったので、患者は「えっ」と当惑した。
「どういう意味ですか?」
「この箱を持ってみてください」
精神科医は、デスクの引き出しから取り出し、空っぽの箱を渡した。スーパーでよく見かけるタイプのお菓子の箱だ。
患者は受け取った。「はい……何か?」
「何か感じ取れますか」
あまり医師の言う意図が分からないまま、患者はその箱を観察することにした。
箱の中身を確認し、何もないことを確認した。カサカサと振る。音はしない。
鼻に近づけると、かすかに甘い香りが感じ取れた。
「チョコレートのような匂いがします」
「そうですね。実際、その箱にはチョコレートが入っていました」
「はい」
「けれど、今は空です」
「ええ」
「では、チョコレートは一体どこから来たと思いますか?」
「どこからって、工場から、ではないんですか?」
「確かに工場から出荷されたと思います。しかし、現在か未来か、と問われると、それはどちらなのか分からないままなのです」
「言っている意味が未だによく分かりません……」
「マジックアイテムのようなものです。ほら、こうして……」
医師は、ペチンッと。空箱を叩いた。
その後、医師の手によって、箱を検める。手には何かが摘まれていた。チョコレートである。
「うわあ……どこから来たんですかこれ」
「未来からです。私が合図を送り、注文したのです」
「注文?」
「未来からです。未来に注文して、この箱に、届けられたんです。だから、」
医師は、ペチンッと。患者の頭を叩いた。突然のタッチだったので、患者の身体はビクッと微動した。
「こうしてやると、あなたに『未来の記憶』が処方されました。分かりますか。念じてみると、ほら……」
「……分かります! 分かります!」
患者はじっとできない子どものように、診察室で元気を取り戻した。
「空を見上げれば星が瞬き、夜になれば月が浮かび。ペンを持てば自分の名前が書け、足を動かせば歩ける! まるで別世界のようです!」
「そうです。その記憶を頼りに、今後も生きてください」
「ありがとうございます! まさにゴッドハンド! バンザイ、春原先生! さようなら先生!」
患者は踵を返し立ち去った。
その後、ゴッドハンドの精神科医はクリニックを畳んでどこかへ行方をくらました。
患者はそれをよしとしない。
頭に埋め込まれた未来の記憶が、自身の「死」の印象を見せ始めたのだ。
気がつけば目の前に霧が垂れ込めていた。
ちょうどよい。患者は白い霧にのまれ、消えようとした。
患者は未来の記憶を頼りに命を落とした。
数年前から身体は溶け、樹海で首を吊る。
それでも未来の記憶は無くならない。
精神だけは尋常に持ち続けた。未来の記憶はずっとそのままだった。一体これは誰の記憶だろう? 誰の記憶を埋め込まれたのだろう。誰の記憶に騙されたのだろう。
誰の……、誰の……、
そう幾度と考えていると、どこからが声がする。
「重症ですね、『過去の記憶』を処方しましょう」
患者がこんな結末になったのは、現在の記憶が無かったからである。現在の記憶が未来の記憶に上書きされて、草木が枯れるほどの時間没したのちに過去の記憶に上書きされる。
患者はずっと未来か過去に生きており、現在にいない。
だからこうやって、現実から迫害を受けてきて、夢に棲むものの声を頼りに暮らさざるを得ないのである。
精神科医の声は、いつまでも夢の中から聞こえる。
※世にも奇妙な、しっくりこないストーリー…。