部屋の片隅で、月を見上げて考えていた。
ここら一体の小石がどうして黄色になっているのか、本来の石の色を塗りつぶし、みな魅了されたように月光に濡れている。
月は答えないが、こう答えているような気がした。
滝みたいなものだ。空と地面にこんなにも落差があったら、そりゃ月の光に濡れてしまうと。
月と対話する人は、なおも呈した。
月の光は、実は借り物なんだろう。なのにどうしてそのように自分の力のように主張できるのか。
月は答えないが、こう答えているような気がした。
本来私たちは対話するような距離感ではない。
眺め合い、光を受け取るもの。
しかし、何一つ変わらない私たちだが、地表の人間たちは区別化して空想上の生物たちの印象付けを行った。
光あるものは正しきものに、闇ある者は影に。
月と太陽も同じように、木から林檎を収穫した。
だから、君のように月と対話するような人は、世界にまたとない人なのだ。
君は、月を収穫しようとして、対話するのだ。
「違うよ、いつまでも部屋にこもって、ひとりぼっちなだけさ」
逆さまとイカサマは似ているなって思う。
先入観で予想したものを裏切ることをして、それが好印象になるか悪印象になるか。実際にはよくわからない。
五年刻みで幸と不幸が連続するならば、いくつかの出来事は逆さまにしてイカサマしたい。
眠れないほど面白い本を見つけてきた。
しかし、辞書のようにとても分厚くて、誰もが鈍器のような何かだと思う程度に重たい。
読了するには時間的効率が悪いので、こういうのは、YouTubeの動画のように、誰かに要約してもらうに限る。
「そうだ! 近所の池に超絶暇そうな浮浪者がいたじゃねーか」
鈍器のような本を引きずって、近所の公園に出向いた。
まるで死体遺棄でもするかのように、その本を池に捨てた。
すると、どこかの定番ストーリーをなぞった。
池から自称女神が出てきた。
「あなたが落としたのは、この面白い本ですか?
それとも眠れないほど面白い本ですか?」
「ふむ……」
などとしばし選択に迷う素振りをしてから、
「面白い本と言われてもな、世の中面白い本なんていくらでもあるからな」
といった。自称女神の目つきが悪くなる。
「本の装丁や表紙の色で見分けがつくかと思いますが」
「しかしなあ、見た目だけでは本というのはわからないものなのだよ。物語とはね、文字情報の住処みたいなものなのさ。そんな風に見せたところで、オレにはどちらがどっちなのか、見当もつかないのだよ――そうだ!」
と、わざとらしい提案をした。
「それぞれあらすじを言ってくれないかな。そうしたら、どちらがオレが落としたものか分かるだろう」
「人間の分際で女神に要約を頼むとは……。なんと愚かしい浅知恵。まあ、いいでしょう」
女神はパラパラと斜め読みした。時間はパラパラマンガのように数秒である。
どうやら俺が持ってきた分厚い本はミステリー小説のようだ。若い女が不審な死を遂げて、その事件は未解決事件になった。
しかし、時効が成立する三日前に、一隻のクルーズ船が日本海に飛び出した。そこで人が殺される……。
「寝るほどつまんなそうだ」
オレは女神のそばにあった本をふんだくることにした。
「なっお前! それは私の……」
「悪いが、俺の持ってきた本はつまんなそうだからさ、もう一つの本にするわ。こっちは薄い本だし、なんてったって「面白い本」っていうタイトルだからな」
女神のコレクションを強奪したオレは家に帰った。
その本は3日くらいかけて丁寧に読んだ。
嘆きの女神になったらしく、その数日は大洪水時代になったようだが、関係がない。ノアの箱舟のような沈まぬタワマンの最上階にいるのだ。
夢と現実。
現代に生きる人たちは、この二つの要素を対義語的に理解している感じがする。
生と死みたいに考えているっぽい。
例えば人生を1と置く。
睡眠時間に1/3、現実世界に2/3の割合で充てているのだから、夢より現実の方を重要視するのはごもっとも。
夢は、大ぼら吹き。現実逃避として利用される悪の組織。
夢の時間たる睡眠時間をなんとかして削ったほうが良いと考え、僕たちはショートスリーパーに憧れてしまう。
学生時代は徹夜したり、夜更かしすることに対して罪の意識がない。
睡眠時間分、人生は損をしているわけだから、その分削って現実世界に生きたほうが得をする。
まだ、この時代には不老長寿の薬なんてないのだ。
そんなことを、生まれた時から植え付けられている。
しかし、どこかのブログでかすった知識を披露すると、今から150年くらい前の江戸時代では、人生とは、現実の世界と夢の世界、その両方を繰り返し経験するのだと思っていたらしい。
現実、夢、現実、夢……。
その繰り返しで、人生という名の時間が進む。
これを読んだ時、僕はなるほど〜、と思った。
つまり、昔の人達は、ちゃあんと「無意識」と「意識」を区別して、それらを包含して人生というものを生きていたのだ。
一方、現代人たちは、意識の世界にのみ生きようとして、もがき苦しんでいるらしい。
養老孟司先生の本を読んだ時は、
「意識の世界とか何いってんだコイツ」と思っていたのだが、つまりそういうことか。
先ほど書いたように、現代人は自分の脳に住まう意識を王様のように考える。王様の絶対王政を強いている。
1日の1/3を睡眠時間という名で時間を「捨てている」と考えがちだから、1日は2/3しかない。
王様はそう考える。すると、自然に無理なことを声高々に宣言することになる。
「だから、人生を効率よく生きよう」と。
無意識の世界を区別してこれを放棄し、思考能力がある時間のみに注視した。
現実(瞬断)、現実(瞬断)、現実……。
現代人は、よく精神を病みがちだとされているのは、そういうことだと思う。
人生の時間に対する姿勢が、給料が天引きされたが如く、何者かの手によって脱落しているため、その時間を取り戻そうとして効率的に、効率的に……、と思うようになった。
これを自覚すると、現実と夢は両極端な概念ではなく、数直線を引いた時のように、水平的になる。
現実、夢、現実、夢……。
その繰り返し。
普通に考えて、人生の時間は「倍」になるわけだ。
あるいは、夢の時間は脳にとって休憩時間である、という再認識も進んだ。
だから無意識について理解するために、夢の世界とは一体どのようなものなのだろうと調べ、発掘していった。
夢占いとか、諸行無常とか、無常観とか。
マインドフルネス(禅)、芸術、祈り、彫刻鑑賞……
今の現代人には、まったくもって理解不能と切り捨てられた思想だが、もうちょっと調べようと僕の好奇心は提案する。
きっと昔のほうが、時間がゆっくり進んでいたのだ。
効率化を考えていったから、時間が早く感じるのだ。
江戸時代が終わって150年くらいしか経っていない今。
人生の効率化を目指していって、生きづらいと思えるからこそ、人生に向き合う必要性に駆られた。
さよならは言わないで、「またいつか」と言いましょう。
そんなことを伝えているお題だなって思った。
両者の意味は98%変わらないものの、後者のほうが耳触りが良くなるようだ、と年齢が深まってくるとそう思った。
嘘かもしれない。
正確に伝えるなら前者。勘違いを起こす。
綺麗事、正論の類。低年齢だとそれが聞こえてくる。
嘘。大人に、なろうとしている僕の心にも小言のように発している。
でも、嘘かほんとか判断するのは数年後の未来の僕だから。
別に勘違いを起こしたっていいじゃない。
数年後の未来は、僕たちにはわからない。
わからないなら、確定せずに曖昧にしよう。
穏やかな海の、波打ち際。歩いていれば足の裏に砂粒がつく。
またいつか、という希望を抱きながら歩く。
痛いっていう砂粒でてきたサンダルを履いていると、良い気分で歩ける、と思う。