鏡の中の自分をみると、老いているなと感じられる。
そういえば、鏡を見てからじゃないと「老い」ってやつを感じないかもしれない。
鏡から連想していって、そういえばあの場面では、みたいに追想が始まる。
という時間があればいいんですが。
鏡の中の自分と認識する暇もなく、さっと見て、さっと家を出る。
眠りにつく前に、眠剤を二錠飲む。
眠りにつく前に、スマホをいじる。
眠りにつく前に、スマホを辞める。
眠りにつく前に、横光利一の『機械』を読む。
……難解なものを読むと、よく眠れるんだこれが。
「永遠に」をでかく考えると、
「果たして永遠とは存在するのか?」
などと考えるようになって、お題からズレてしまう。
ちっちゃいタイプの永遠について考えてみたい。
人間は永遠に憧れて発展してきたところがある。
永遠に生きてみたい。その考えによって寿命が延長され、長く生きられるようになった。
しかし、生きるというのは苦しみと寄り添うことである。
日本は物価高で、金銭的貧富の格差があり、時代とともにどうしても縮めようと試みても差は開くばかりだ。
思ったのは、人は「永遠」に取り憑かれているから、生きづらくなったのではないか。という、単純な思考的結論である。
これは頭の悪い子供に多く憧れがちだ。
長く生きたいと強くそれを望み、後世の人たちはそれに対して真剣に取り組んだ。
結果、時間的に長く生きられ、科学も発展して娯楽がたくさん生まれてきている。すべてを見ることは数十年前から無理だろう。
永遠に取り憑かれたから、余剰産物を生み出し続ける。これは、人間がそこにある限り続けられるもの。つまり「永遠」。
だから、未成年たちに皺寄せがいっているのだ。
未成年たちは、永遠に取り憑かれていないから、早く死にたいなどと言って、死にたくなって死ぬ。
そんなことを誰かが言うのである。
これが頭の悪い子供の単純な思考的論理である。
でも、未成年は別に永遠がどうとか考えたことはないと思う。永遠があってもなくても関係ない。
多分、永遠が当たり前に存在し過ぎていて、麻痺しているのだ。
まあ、つまり。
話は変わるけど。少子化対策って、子供がなるべく死なないようにするために、子供を大事にすることらしいけど、そんなこと、やってないよね。
ご存知の通り、人間社会は永遠を継続するために生きているのだから、少子化対策なんて「一時的なもの」するわけがないじゃないですか。
そんなの、子供たちがやってください。
そういうメッセージを受け取り続けている「あたりまえの永遠」にさっさと気づいてください。
子供たちに言ってるんですよ。
理想郷を言ったらどうだ、って。
誰かに囁かれた気がした。
夢は夢のままでいたら、いつまでたっても夢のまま。
いわばその状態こそが「理想郷」と言える。
頭のなかで想像すれば創造となる。
だから神の思想について考えるのだ。
頭のなかはいつも完璧だから、ゆえに人間の頭のなかも完璧で埋め尽くされている。
しかし、現実に解き放とうとすると、一気に陳腐なものになる。時間とともに廃れる事が分かってしまう。
頭のなかはすべて完璧。その正体は、時間が流れないことなのだ。
現実世界では、何かに触れようとする時も時間は流れ、それをいくら細分化しようとも時間は流れ、止めることはできずに流れ続ける。
だから、ついさっき聞こえた言葉はブラフとなる。
幻聴の類。化け物の遠吠え。
理想郷は、頭のなかに留めることが大事なのだ。
しかし、物事には限度というものがある。
その通り。
理想郷について考え込み、追加要素を付け足し続けると理想郷にはならぬ。
しかし、完璧であるがゆえ、理想郷=理想郷、理想郷≠理想郷が共存共栄する。
その事を考えると、人間社会はそれの通りではないか、と思った。
懐かしく思うこと。
点滴。
小さい頃の僕は気管支喘息という不治の病を患っていたので、病院に行かねばならぬことがよくあった。
気管支喘息とは、風邪を引いたりすると、喉がキュッと狭まって、息が吸えなくて死んじゃう…っ、というやつである。
だから、夜が深まると徐々に息が吸えなくなり、息を吸うだけで、ゼイ、ゼイ、と喉の奥から音がするようになる。
そんな状態だと入院しなよ、という有様なのだが、入院というのはお金がかかってな。
日帰り入院とでもいえばいいのか。
横になっているだけの木偶の坊の子供(僕)を引きずるように大型病院に連れていき、点滴と吸引をする奴である。上体を起こすだけでも死んでしまうのです。でも、吸わなきゃいけないっていう奴。
病院の吸引薬でちょっとだけ元気になると、適当に院内を歩けるようになる。
点滴の、なんか液体が詰まってるパックをぶら下げた棒とともに歩く。
腕にはぶっとい針をぶち込まれ、固定されて点滴されるのであるが、僕のその時の仕事は、おトイレにいくことである。
約3時間くらいで500mlの点滴パックが3回交換されるということだから、1.5リットルくらい強制的に注入されてるんかな。
だから、小学生低学年ということで、5分に一回レベルで膀胱がいっぱいになってしまうのだ。
その日は昼食やら夕食やら、食べた記憶がないので、点滴がご飯という感じである。
きっと栄養剤も加味されていると思う。経口摂食でないから、味も満腹も感じませぬ。
今は、入院も点滴もすることはないので懐かしい。
しかし、不治の病の気管支喘息だけは残った。
寛解なのだが、風邪を引くと一カ月ほどぶり返す。
一カ月間ずっとゴボゴボしてます。
吸引薬ほすぃ。
拝啓、電車内の人。
風邪は治ったんですが、咳だけ残ってます。
大きく吸って、ゲボン、ゲボン。
これでも夜よりマシなのです。深夜はこれよりでかいの咳が出てしまって寝れません。
これは不治の病なので、小さい頃からこうなのです。
仕方ないのです。