ジャングルジムのある公園を見つけて、年甲斐もなく登ってみた。
かつては一番頂上のブロックに行けなかったのだが、この年になると一応登ることはできる。
……落ちないように、細心の注意を払って、おどおどと、足を運びながらであるが。
一番頂上から頭を突き出して公園内を見渡してみた。案の定という感覚が頭の中から突き抜けてくる。
何も無いな。
記憶の中にあったはずの錆びれたブランコや、うんていなどがない。砂場は普通の地面と同化するような灰色であり、もちろんそれらに子供たちの姿はない。
ただ自分だけがいる。
ニュースで又聞きしただけだが、幼稚園ではラジオ体操をやらなくなったらしい。
外で遊ぶことが少なくなったから、身体が弱くなってあの程度の体操でも身体中が痛くなってしまって、負荷の軽い体操を新たに考案したものを使用することにした県があるという。
たしかに危険は少なくなったかもしれない。
公園の遊具が撤去されるに至った理由は、主に転倒である。
転倒で膝を擦りむいてしまったときの、子どもたちの泣き声ほど遠くに響き渡るものはない。
それが周辺住民の騒音認定されたとしたら、遊具のある公園というのは、肩身の狭い気持ちが集まるというのだろう。
ジャングルジムも撤去される運命にある。
こうした高さのあるものは、数年後にはスカイツリーとかに置き換わってしまうのかなって、しみじみしちゃうな。
(声が聞こえる、を抜かしてしまいました……)
秋恋……、秋恋ってなんだ?
「そうか、今日は秋分の日だからか」
僕はなるほどと合点する。
ネットで意味を問うてみたが、いまいちな答えしかのっていなかった。造語だという意見もあり、秋の時期にスタートする恋のことを指すというのもある。
正直恋愛系は僕の筆の範疇にない。
だから現実を幻にして多角的に見つめてみることをしているのだが、秋については過ごしやすい以外に考えたことがない。
今年も秋が来るんだろうかとちょっと心配していたが、例年通り?か分からないけど、秋は来たっぽい。
まあ、残暑はまだ残っているが、秋雨前線がどうのこうの言ってるから、それを乗り越えれば来るってことでいいんだろうな。
乗り越えてばかりのこの人生。
秋分の日は秋を感じていたい、という天気であった。
良き温度。
大事にしたい、と思える時を過ごしているから、大事にしようと思うのであり、そう思わない時を過ごしていると時間を浪費してしまう。
だいたいの人は、そもそも大事にしようと思うベクトルは物や他人に向いており、自分に向いていない。
そういう人は、自己肯定感が低いらしいので、自分を大事にしようと思うことを大切にしたい。
と思っている僕の休日は今、ぬいぐるみの下敷きになっている。もふもふが押し寄せてきて良い。
時間よ止まれ。
心のなかで念じたら、本当に時が止まってしまった。
えっ、ウソ、あれっ。
内気な小学生は保健室の中で慌てている。
自分以外の人間は皆、音が溶けるのを待つ指揮者のように静止してしまった。
体重計に乗ろうと片足立ちになっている生徒。
身長計の棒を下ろしている最中の、看護師と生徒の対話。集団行動の静寂になっていない静寂。
体重を測り終わって友達の輪に合流し談笑している集団。口を開けたままニヤつく同級生。
戸惑いつつも、強制静止の食らった保健室の隙間を縫い、廊下に出る。やはり時は止まっている。
次のクラスの見ず知らずの人たちが、列をなしている。林立する彫刻の森のように。
無造作に並べられ、視線があちこちに飛んだままになっている。
保健室に戻り、ドアを閉めた。
彼女はくくっと声を出し、そして笑った。
とても気分が良かった。
自分以外のみんなが止まってしまった。
面白い、面白い、わっと笑う。
学校でこんなに笑うのは、初めてかもしれない。
ざっと記憶を見積もっても、少なくとも3年は経っているだろう。
嫌な奴、嫌な奴、嫌な奴。
私をいじめた。見捨てた。見て見ぬふりのクラスメイト。先生。教頭。校長。
保健室に逃げ込み、保健室登校をしようとしたのに、慰めるどころか上から目線で説教をした保健室の先生。親指のような器の小さい親。
彼女が好きなのは勉強くらい。黒板くらいだった。
でも、この日は不運なことに、大好きな算数の授業を潰して、健康診断をしている最中である。
小学生は目が悪くて、壁にかけられたランドルト環がぼやけて上下左右がわからなかった。
わからなくてわからなくて仕方がなかった。
目を凝らしても見えない。
そんな精神でいられない。
こんなの、見えたって意味がない。
そろそろメガネを作らなければ、という現実を殺したかったから念じた。そしたら止まった。
夢を見ているかもしれない。それでもいい。
色のない世界に生きていたんだから、時が止まったっていいじゃない。ねぇ、そうでしょ?
近くの彫刻に足を運んだ。
特に見覚えのない命だった。
手のひらを伸ばし、指が触れた。
硬い。それはそう。
彫刻の顔、耳、エラの部分、下顎、そして首。
首に手をやる。
リボンを結ぶときのように。
将来のための新婚ごっこをするように。
ネクタイを結ぶように。
両手を添えた。
そして、一気に力を込めた。
握力計を両手でズルをするように……
……破片が散らばっている。
うわばきを履いているのに足元が痛い。痛いという感覚が罰として下った。身体を貫いてくる。
でも、いいや。
投げ飛ばすように赤いうわばきと赤いソックスを脱いだ。裸足のまま歩く。
それから1000年くらい、彼女は神さまのせいにした。
こうなったのは神さまのせい。
一人って、こんなにも楽しいんだ――と、まだ一人で笑っている。彫刻の首を縊(くび)り殺して回っている。
夜景を見る人それぞれに、客観視の概念があると思う。
海側、二階席のグリーン車。東海道線。籠原行き。
その人は製造業の工場派遣をしているというのに、行きと帰りの通勤電車はグリーン車を使っている。
早朝は小田原行きの東海道線グリーン車。
夜7時、つまり現在時刻は籠原行きの東海道線グリーン車。
それに乗って、都会に帰るのだ。
新幹線を使えばいい。普通車のすし詰め状態のくぐもった声。
それらを無辜の民のように聞き流して、お茶のペットボトルを一本飲む程度の有意義な時間を過ごす。
帰りは駅弁を買い、グリーン車で食す。
……ことができればいいが、そんな贅沢、いつもできるわけではない。
藤沢市の住宅地を見渡した。
川崎工業地帯を見やった。
品川駅越しの高層ビル群、高層ビル街を眺めた。華やかなイルミネーションのように、建物自体に光が咲き散らばっている。人の営みが纏わりついている。
夜の都会は眠らぬ。どうしてかと思考を巡らす。
残業手当のために居残っている同胞か。
あるいは家族の団欒のために漏れる光か。
それから夜景をデザートとして、夜のディナーを戴いている富裕層たちか。
無人の建物の中にいるロボットの電源装置か。
昼夜逆転した夜勤バイトの疲れた香りか。
かつて遊んでいた子供の年齢で塾に籠もる自習室から漏れる光か。
誕生日を祝う、ろうそくの光。
投げ出したPCの見えない印。
そんな意味を持たすなこの光たちに。
たった2秒の過ぎゆくグリーン車の、眺める車窓のために、人間たちはいつものように意味を持たし、意味を投げ出している、という夜景。
東海道線車内の横揺れを感じる。グリーン車だから、音は若干抑えられている。
ペットボトルの蓋を開け、薄っぺらいお茶の味を味わう。まもなく新橋、新橋です。