香水が洪水に見えて、濁流を抱く龍が寝そべるような川上から幸水の化け物がどんぶらこと流れきた。
誰かが桃のようなでかいナシを拾って、家でパカンと真っ二つに割ったら、硬水が噴水のように吹き出してきて美味しいという話。
(何も思いつきませんでした……)
言葉はいらない。
ただ……言い方ってもんがあるだろう。
「九州のお陰で本州が守られたという功績を、東京としては感謝を送りたい」
「大杉のある屋久島に、ノロノロ台風が上陸した結果、台風の目が崩れて暴風域がなくなった」
日本のニュースは、東京・大阪に主語を置いている。
九州四国は、若干の陸地の切り離しがあるので、本州とは呼ばれない。
あれは島国である。
と、どこか遠い国のような気分がある。
雨台風としての脅威は残っているので、来週どうなるか不明瞭。注視に注視を重ね、注視していきたい。
こんな風に考えてない。
突然の君の訪問。
とても困るのでお引き取りください、と僕は君に風船をくくりつけることにした。
幽霊のように意外と軽いから、大きな赤い風船とともにふわふわと浮かんで去ってしまった。
徐々に小さくなっていくのを見送る。
「これでよし」
僕は現場猫のような指差呼称で確認する。
右よし、左よし、前よし、後ろ……
と後ろを振り向いたら、赤い風船が見えたものでちょっとびっくり。
いや、びっくりしなくてもよかった。
これは自分で用意していたものだった。
遠目から見たら、バラの花束のように見える。
リビングの窓が開けっ放しなので風が入り、赤い風船たちを揺らす。それだけなのに、空にとんでいってしまった彼女が、その中で蹲っているのではないかと思ってしまう。
一応、手を突っ込み、無いのを確認。
玄関に戻り、施錠。
……あれ? 靴が一足増えている……?
侵入を許したようだ。
雨に佇むものは、空にある慟哭に目を投げていた。
今まで、どれくらいの涙を流したというのだろう、天も自分も……
百代は永遠、過客は旅人――という意味。
月日は百代の過客にして~、と昔の人は詠んでいたというが、彼らにも汗に似た涙を地面に流している。
山に登れば自然に反応して汗をかくように。
それが雨粒で地表を滑り、川に流れて海にたどり着き、それが蒸発して雲になって、雨となって下る。
降りしきる雨のなかで、置いてきぼりを食らわされているそのものは、人間でない代物をしていた。
身体の色は全身白色をしていて、白いエビフライのような見た目をしていて、雨の中でもちょっとかわいい。
古い言い方をしたら白いアザラシである。
けれども図体はそれなりに大きくて、700メートルの山よりも大きく、まるで小大陸のように寝そべっていた。
周りは海しかない。空模様は止まない雨である。
そう、この星は、数百年前からずっと、止まない雨を降り、それを続けている。
今日も雨、明日も雨、一年後も雨だろう。
ちょっとしっぽに意識を向けてみた。
かわいいしっぽはすでに海の中。
持ち上げてみないと海の外にいけない。
渦が生じるような水の重さを感じ、ざばあ、としっぽを動かした。
ちょっとだけ別の生き物が出現したような感じがして、個人的に楽しい。
そのものの体色は、最初は黒土のように黒っぽかった。
土の中に埋もれていたような恰好をしていた。
地震の正体は、そのものが「ごろり」と寝返りをしたからだったが、地上の人々はやけに高技術なものを駆使して予測しようとしたり、プレートやマントルを研究していたらしい。
それを翻弄するようにそのものはそうしていたが、誰かが儀式でもしたのだろうか。
長い雨がやってきて、長い雨によって、そのものと地面の境に氾濫した川や、水の流れによって浸食した溝をいくつも作るようになって、今ではもう、それらの文明は海底の仲間入りとなった。
すべてが水没した。そのもの以外。
陸地が雨の幾重もの打撃によって、陸地が砕け解けたように見えた。
実際は陸より水の海域が広がっただけなのに。
そのものはまだ遠慮して、その場にとどまっていた。
過去に行った「ごろり」による影響を鑑みて、世界的に影響があると認識していた。だから雨が降ってから今日にいたるまで、苔むした石のように固まって濡れていた。
けれども、このままだと大量の雨粒の音を聞いて、身体がくすぐったくて、くしゃみや身体のふるえを引き起こすかもしれない。
そのものは泳ぐことにした。
そのものは体長1キロメートル以上はあるので、数分ほどで雲の端が見えるところまで泳ぎ、雨粒から逃れることができた。
やった、と嬉しそうにした。
そのものは海面をランランと泳いでいたが、海底とやらがどのくらい下にあるのか興味を覚え、ドルフィンのように海に潜った。
天に届くくらいに長いしっぽが塔のようにそびえ立った。ゆらゆらと揺れ、雲の欠片を払う。
それによりようやく、止まない雨はない、と言えた。
私の日記帳。
学生時代には、日記帳を含むノート類は手に馴染みがあった。
一教科につき一ノートを買うレベル。
これって実際おかしな話だ。十教科あれば、十冊ものノートを用意しているわけだろう?
ノートを忘れることに関して怒られるなんて、ちょっと理不尽。子どもにそこまでノートを何冊も持たせたら、忘れたり無くしたりするのは仕方がないと思える。
どうせ、ノートの最後のページまで使わないだろうと目論んで、既存のノートの反対側から書き始める、ということを僕もやった気がする。
あれは、ノートを忘れた後ろめたさもある。
忘れたとき用の単なるメモ書きで、家であとで写せばいいかと思っていたが、子供の脳みそなんて鉛筆の色で塗りつぶされたがのごとく忘れがちだから、数日の授業の末に忘れて、同じようなことをして「あ」と気づく。
しかし、その後は反省なんかせず「まあいいか」で済ませて。
それでノート提出のときに慌てて、夜な夜な呻吟するのである。
小学校あたりまで記憶を遡ると、日記帳というものは、たしか上に絵を描き、下に文章を書く構造だったと記憶している。
どこの学年からだろう。たしか美術と呼ばれるよくわからない絵画鑑賞が現れる頃には、日記帳=文章のみになっていた。
他の人達の投稿を見るに、日記帳というのは、メモ帳の類似品のように、そのときの文章を書き留めておくためのもの、という認識が強くあるらしい。
別に絵は描かなくとも良い、ということになっている。
これは、思考を主として、抽象度が高くなって、文章からその時の場面が立ち上がるようになったからだろうか。
そんな事はない、ような気がする。
いつしか日記帳は、メモ帳のように軽く書き留める代物になった気がした。
だから、自分の生み出した文章を軽んじて、書き殴ったり紙を破り捨てたりすることが軽くできるようになった、と思った。
同様に、そんなことをする人たちは、自分の心もそうしているのだろう、と陰ながら心配もする。
じゃあ、文章の上に絵を描けば日記帳に戻るのかといえば、僕はもう汚い絵を描くに値しないプライドを持ってしまったから、もう絵はかけない。
仕方がないからネットのフリー素材を探し出して、それを貼り付けたとしても、やはり捨ててしまう。
所詮他人が描いた絵の、量産品だと思ってしまうから。
日記帳って、こうしてみると、自分の画力の無さを棚上げしてまで、あそこに汚い絵を描く理由があったのだろうな。
だから、――ってあの頃に伝えたくなる。