22時17分

Open App

私の日記帳。

学生時代には、日記帳を含むノート類は手に馴染みがあった。
一教科につき一ノートを買うレベル。
これって実際おかしな話だ。十教科あれば、十冊ものノートを用意しているわけだろう?

ノートを忘れることに関して怒られるなんて、ちょっと理不尽。子どもにそこまでノートを何冊も持たせたら、忘れたり無くしたりするのは仕方がないと思える。
どうせ、ノートの最後のページまで使わないだろうと目論んで、既存のノートの反対側から書き始める、ということを僕もやった気がする。

あれは、ノートを忘れた後ろめたさもある。
忘れたとき用の単なるメモ書きで、家であとで写せばいいかと思っていたが、子供の脳みそなんて鉛筆の色で塗りつぶされたがのごとく忘れがちだから、数日の授業の末に忘れて、同じようなことをして「あ」と気づく。
しかし、その後は反省なんかせず「まあいいか」で済ませて。
それでノート提出のときに慌てて、夜な夜な呻吟するのである。

小学校あたりまで記憶を遡ると、日記帳というものは、たしか上に絵を描き、下に文章を書く構造だったと記憶している。
どこの学年からだろう。たしか美術と呼ばれるよくわからない絵画鑑賞が現れる頃には、日記帳=文章のみになっていた。

他の人達の投稿を見るに、日記帳というのは、メモ帳の類似品のように、そのときの文章を書き留めておくためのもの、という認識が強くあるらしい。

別に絵は描かなくとも良い、ということになっている。
これは、思考を主として、抽象度が高くなって、文章からその時の場面が立ち上がるようになったからだろうか。
そんな事はない、ような気がする。

いつしか日記帳は、メモ帳のように軽く書き留める代物になった気がした。
だから、自分の生み出した文章を軽んじて、書き殴ったり紙を破り捨てたりすることが軽くできるようになった、と思った。
同様に、そんなことをする人たちは、自分の心もそうしているのだろう、と陰ながら心配もする。

じゃあ、文章の上に絵を描けば日記帳に戻るのかといえば、僕はもう汚い絵を描くに値しないプライドを持ってしまったから、もう絵はかけない。
仕方がないからネットのフリー素材を探し出して、それを貼り付けたとしても、やはり捨ててしまう。
所詮他人が描いた絵の、量産品だと思ってしまうから。

日記帳って、こうしてみると、自分の画力の無さを棚上げしてまで、あそこに汚い絵を描く理由があったのだろうな。
だから、――ってあの頃に伝えたくなる。

8/27/2024, 4:01:16 AM