君の奏でる音楽は、百年の孤独に匹敵する。
この楽譜を手に入れたとき、ヒト一人の人生を、湯水のごとくすべて使っても理解しきれない歯ごたえと、噛むごとに滲みでる、幽かな残存。
それにより琴線に響いた、心地よい柔らかさを感じた。
神の血を引く傲然とした血脈。
鎌倉時代の源氏のように、途切れた血筋。
その古さを感じた。良き古さであった。
旧態の埃を被り、忘れ去られた探訪の末の君。
宿を貸してくれたうら若き村人か、豪族の末裔の幼い巫女、欧州ならば聖女であろう。
この目で一度は見てみたかった、君(作曲者)の姿を。
だけれども、ここには楽譜しかない。
楽器は見えず、輪郭は見えず、また君も見えず。
歴史の狡猾さと、時間の跳躍により、堅牢な亀の甲羅の中に籠もりきりで、長寿の象徴たる亀すら死んでしまった。タイムカプセル失敗。楽譜がむき出しになった。
もはや退廃した世の中の、廃れた叢のなかにゐる。
君は、時代に従った埋葬方法をされたかすら不明である。楽譜は飛ばされた。
飛ばされ、飛ばされ。
歴史のとある1ページがそのまま現代へと飛躍してきたかのようだった。
空虚を飛んで、空間を飛んで。
記憶と事実の彼方から無名の風に乗り、ゴミの、紙切れを私は拾う。
それが譜面であると私のみが見抜いた。
ただのゴミではない。
黒い線が引いてある。
小さく黒い丸が付けられている。
くしゃくしゃの紙面上に踊る黒色
私が数少ない、音楽活動者であったことが奇跡であろう……。
今回のMVでは、その邂逅を再現したつもりである。
色の失ったモノクロの世界。
目撃情報は白と黒の世界。
黒い影が動き、黒い風を描き出している。
音楽家が紡いできたものも白黒。
紙とペン。
幾筋もの横線で音階を示し、いくつかの黒円をぐるぐる書いただけ。
抽象の、抽象による、音楽的流布の再現。
音譜も系譜も、白と黒でできている。
もしかしたら人間だって、白と黒の二色カラーでできているのかもしれない。
色取りどりに見えるのは、人間の眠りから目覚めた延長上にある目の錯覚に踊らされているだけなのかもしれない。
世界はカラフルであれ!――という単なる思い込み。
君の奏でる音楽は、百年の孤独に匹敵する。
色の必要としない物語。孤独は、そもそも色を必要としない。耐えるべきは時間という風のみなのだ。
その孤独を、動画サイトに解き放て。
君を、好きなだけ奏でてほしい。
時間の跳躍の末の音楽的拡散。
私はその一助をしたのみである。
(作詞作曲 くしゃくしゃの紙)
麦わら帽子みたいなお皿を見たことがある。
それはどこか高級そうなホテルにあって、麦わら帽子を裏返しにして、頭のスッポリ入るくぼみにかぼちゃの冷製スープが入っていた。
つばの部分がえらく広くて、麦わら帽子みたいだなあって思いつつスプーンを沈めた。
わずか数口で完食してしまい、次の料理(フルコースの前菜)が来るのを待っていた。
「持ちやすそうだな……」
ってなんか思った。
麦わら帽子について調べてみたけど、今の麦わら帽子って昔みたいにチクチクする素材じゃなくなったみたい。
つばも強調したみたいに長いわけでもなく、UFOの円盤感もそこまでなくなった。
首にかける紐も、取り払われたようで、もはや記憶の彼方までフリスビーのごとく飛んでいってしまったのではないか。
そんなことを思い、ダラダラと過ごした3日間であった。
終点って、多いように見えて実は特殊な条件下でないと成立しない。
バスや電車など公共交通機関に終点が設定されているが、乗客を降ろしてしばらく経つと、行き先を変更して戻っていく。
都会式パーキングの円盤のように、ベクトルが向きを真反対にするための所要時間のようである。
そうして終点が起点となって、また動き出す。
何事もなく電車を見届けると、終点って何なんだろう。
と思えてしまう。
夜間、営業が終わっても、それは休眠状態であり、時間が経てば再び動きだす。
物体は物体である限り、操作者の思った通りに動く。見えない糸に繋がれて、その通りの動き方をする。
数十年後。
経年劣化による車両の引退セレモニーがあり、その後こそ「終点」ということになるだろうが、それは電車の終点にほかならない。
車庫で解体され、部品レベルまで分解されて、再利用されたり大事に保管されたりなんかして、別の役目を与えられる。
終わりは、一つの区切りでしかない。
本当の終わりなんてもの、果たしてあるのだろうか?
始まりがあって終わりがある。
と、人間はそう思いたい。
終わりを見届けることができないから。
物事が無限に続くことに、心底人は理解できないから。
でも、実は、その中間辺りの、始まりと終わりの途上にいることのほうが多い。
途上であれば休眠状態もあるし、静止状態もある。
春夏秋冬春夏秋冬春夏秋冬……過去にもずっと続き、未来にもずっと続くと思う。
それを諸行無常と昔の人は捉えたのだ。
そういえば、ずっと続くものは、理解不能だ。
だから、歴史というものがある。
歴史は、始まりがある。
ビッグバンから始まって、地球ができて、地上ができて、自然があって、人間が住むようになった。
壮大で膨大なストーリーだが、ちょっと待ってほしい。
歴史が物語のように感じられるのは、どこか作為的な感がする。
紡げない糸は縫合されずに放置されるように、落葉した枯れ葉が土に煮溶けた夏はいくらでもあっただろう。
そう都合よく、人間がわかる通りの物語風になること自体、疑うべきなのだ。
校長先生の長台詞はつまらないと決めつけて、もはや眠ってしまうことがある。永遠と続く時間に、春夏秋冬というものさしで区切って断片化しようとする。
季節は四段階で繰り返されるから、人間は普遍に対し特別感を出そうとする。
ゲリラ豪雨。
熱射。猛暑酷暑。
暖冬。
落葉シーズン。
通勤電車。
桜咲く。散る。盛る。セミの音。
特別感が、終わりなく続くことはありえないから。
いつか終わりがあるから特別なのだ。
特別が終わって次の特別に気づき、もう始まっている特別に酔いしれ、終わって特別になる。
悠久たる普遍を細分化して、数多ある特別を配置した。特別は繰り返すから、終点があり、終わりがある。
人生に終点があって、そこで終わると事前にそう思い込みたいから。
本当は道半ばで終わると思う。
だって終着駅のホームすれすれに、電車が停まることはありえないじゃないか。危険だよ。
いつも一歩手前で停まり、そして、機械のベクトルは引き返す。
ここが真の終わりではないと知っているかのように。
僕は熱いホームで見送る。
上手くいかなくたっていい。
こう思うこと自体、「ルサンチマン」だよね。
ルサンチマンとは何か?
と説明しようにも、僕自身の言葉では難しい。
ニーチェの「ツァラトゥストラはこう言った」で出てきた嫉妬、憎悪、怒りなどにより「価値転倒」させる源だったと思う。
世の中は弱者と強者がいたら、強者のほうが価値がある。
しかし、そのことが許せない感情(ルサンチマン)を持つ弱者は、強者を叩く弱者のほうが価値が高くなるという「正義」を実行して弱者を正当化しようとする。
そんなことをしても弱者の現実は弱者のままで、一向に変わらない。
あれっ、この現象最近ありましたよね?
弱者は、弱者のままでいいんだ!
というやつである。
詳しくは個人で調べてもらって(逃げる)……。
ルサンチマンの何がいけないかって、ルサンチマンの知識を知っているにも関わらず、自身がルサンチマンであることに気づかないことが良くないらしい。
「弱者のままでいるのって良くないことですよね?」
と他人に言っといて、その人もルサンチマンであると気づかない。
これを「ルサンチマンの発散」という。
これによって、弱者をより正当化する運動、情動がなされることになる。
要するにバカですね。
まあそんなことを書いといてアレなんだけど、世の中ルサンチマンだらけです。
僕も正直ルサンチマンです。
ルサンチマンになりたくないと思っているタイプのルサンチマンです。
これでいいわけです。うんうん。
疲れてない時はルサンチマンになりたくないと努力をし、疲れたときはルサンチマンになってやるぞと逆に開き直ることにしました。
ルサンチマンっていう言葉があるから、他人を見下すようになるのでは?
最近の僕はお疲れ様なので、ルサンチマンになろうと思います。
ずっとルサンチマンになるのがいけないんだよ。
弱者は中毒性があって、中毒症状として弱者を正当化しようとする言葉「うまくいかなくたっていい」と言ってしまうと。
でも、その言葉はいつか効かなくなる時が来る。
今は我慢できるけど、将来もっと重荷がのしかかるときも「うまくいかなくたっていい」って自分をごまかすのかな。それは、ちょっと違うよね。
その言葉、あまり使いすぎないほうがいいよねっていう、人生の知恵だと自己解釈したい。
蝶よ花よと大切に育てられたお嬢様は、今年で小学四年生になる。
今はお盆休みの数日前。つまり夏休みだ。
お嬢様は都内有数の小学校から、福島県某所の避暑地に退避していて、なるべく夏から逃げている。
すでに夏休みの宿題は自由研究を残すのみ。余裕だ。
目は石板の電子機器から離さず、指先が腱鞘炎の原因になるくらいまでめちゃくちゃに動かしながら日が暮れるのを待っている。
ネット上で、とある炎上を発見した。
情報拡散が激しく火花を散らせている。またたく間にお嬢様の興味をひく。
思い立ったが吉日。
片手に学タブを持ち、片手に麦茶の入った長コップを持って、好奇心に赴くまま、クーラーのよく効いた部屋を出た。
熱帯夜の常駐する暗く長い廊下を通るとき、ものすごい湿気とミンミンゼミのミンミ〜ンが、大後悔をもたらした。別にチャットで聞けばいいか、いやいや。
廊下を走って数秒後、避暑地の主である祖父の書斎に、ノックもせずに入室した。
祖父はいまだ矍鑠としており、新聞を広げてやれやれと首をかしげている。昨今の乱高下の激しい日経平均株価が気になるらしい。同調して赤ベコのように首を振っている。
「ねえおじさま。聞いていい」
「なるべく手短にな」
ここ数日は、この会話から始まっている。
「今SNSを見たらとある有名人で話題を呼んでいるじゃない。いわゆる、炎上?」
今はパリ五輪の開催中。
世界中が熱狂の渦に巻き込まれているのだが、日本人の金メダル獲得が芳しくないのだろうか。
時間稼ぎか何かで、とある芸人が炎上していた。
ざっと目を流してみたが、割とどうでもよいネタで炎上している。
もちろん、彼女はネットリテラシーが高いので、そんなことは呟かない。
金魚鉢の水槽をみるような目で静観しては、このように雑談の蝶よ花よとしているのだ。
学タブの画面をONにし、見せた。
「ここなんだけどね」
どれどれ、と覗き込む祖父。
老眼鏡の黒いものを上げた。目玉ごと、くいと。
「この謝罪文、末尾に別の芸人を出してるの。○○さんと××さんは関係していませんって。わたし、炎上の経緯を追ってないからよく分からないけど、どうしてかなって」
「まあ、またポロっと書いただけだろう」
電子機器から目を離し、新聞記事に戻る。
「脇が甘いな、何歳なんだ。その厚化粧は」
「うーん、推定30代前半……年齢未公開だけど」
「五年も経てば山婆確定だな。復帰できた芸人の、あの老け顔を思い出す」
祖父はこの通り、毒舌家である。
きっとお嬢様が突撃する前でも、新聞記事についてボロクソに吐いていただろう。でも、
「気になるよ。だって突然出てきたから。見直しとかしないの? こんなところに書いたら、ツッコまれるって。まるで何か、救援メッセージでも投げかけてるんじゃ……」
「それを考えたら思うつぼだぞ」
新聞でも広げながら適当なことをあれこれと呟いた。
「あれでも裏でいろいろとあったんだろう。SNSの連中はSNSのことだけがすべてだととらえがちだが、表があれば裏もある。表の情報だけがすべてじゃない」
「じゃあ、どうしてメラちゃんは、裏の情報を出してきたの?」
メラちゃんというのが件の炎上の人物である。詳細は伏せるが、文字通りめらめらと燃えてしまったのである。
「そのまま表向きの謝罪をして、裏のことは秘密にしてしまえばいいのに…」
「それは300万人のフォロワーが納得しちゃくれんだろう。
ものすごいインフルエンサーだったんだろう? インフルエンサーとは、私にはわからん職業だが、個人経営、信用取引みたいなものだな。ハイリスクハイリターン。普通の人は保険をかけて防御するが、その人は慢心したかで掛けていなかった。おそらく一人っ子のようなものだ」
「一人…、孤独?」
「子供ならその語句が類語になるが、大人になれば自己判断、自己責任。今まではフォロワーが多いということで目をつぶってもらっていた部分もあった。
それが『キャラ』だということで、売名なりマーケティングなりをして数字や金を得た部分もあった」
「CMとか教科書に掲載される予定だって書いてあったよ。それらも今は白紙に戻ったみたいだけど」
「教科書に載るような人物が、冗談でも言っていけないことを呟いたから、とSNSの連中は糾弾するだろう」
「ラジオのパーソナリティも降板されるみたい。『他者を尊重しない誹謗中傷する行為は決して認めることができない』だって」
彼女はふっと、嘆息した。
「やっぱり、干されちゃうのかな」
「SNSの連中も飽きないな。毎度展開が一緒だ」
新聞をたたむ大げさな紙の音。
しかし、書斎内までで熱帯夜の廊下には遠く及ばず、すぐに音は止んだ。音まで一緒に畳まれる。
「SNSの温暖化だ」
「あっ、なんかそれいい! ねぇ、自由研究のテーマにしていい?」
「なんだ、指だけでなく心も火傷したいのか。将来不登校になりそうで、心配になるな」
「それが学生にとっての〝干される〟になるのかな?」