終点って、多いように見えて実は特殊な条件下でないと成立しない。
バスや電車など公共交通機関に終点が設定されているが、乗客を降ろしてしばらく経つと、行き先を変更して戻っていく。
都会式パーキングの円盤のように、ベクトルが向きを真反対にするための所要時間のようである。
そうして終点が起点となって、また動き出す。
何事もなく電車を見届けると、終点って何なんだろう。
と思えてしまう。
夜間、営業が終わっても、それは休眠状態であり、時間が経てば再び動きだす。
物体は物体である限り、操作者の思った通りに動く。見えない糸に繋がれて、その通りの動き方をする。
数十年後。
経年劣化による車両の引退セレモニーがあり、その後こそ「終点」ということになるだろうが、それは電車の終点にほかならない。
車庫で解体され、部品レベルまで分解されて、再利用されたり大事に保管されたりなんかして、別の役目を与えられる。
終わりは、一つの区切りでしかない。
本当の終わりなんてもの、果たしてあるのだろうか?
始まりがあって終わりがある。
と、人間はそう思いたい。
終わりを見届けることができないから。
物事が無限に続くことに、心底人は理解できないから。
でも、実は、その中間辺りの、始まりと終わりの途上にいることのほうが多い。
途上であれば休眠状態もあるし、静止状態もある。
春夏秋冬春夏秋冬春夏秋冬……過去にもずっと続き、未来にもずっと続くと思う。
それを諸行無常と昔の人は捉えたのだ。
そういえば、ずっと続くものは、理解不能だ。
だから、歴史というものがある。
歴史は、始まりがある。
ビッグバンから始まって、地球ができて、地上ができて、自然があって、人間が住むようになった。
壮大で膨大なストーリーだが、ちょっと待ってほしい。
歴史が物語のように感じられるのは、どこか作為的な感がする。
紡げない糸は縫合されずに放置されるように、落葉した枯れ葉が土に煮溶けた夏はいくらでもあっただろう。
そう都合よく、人間がわかる通りの物語風になること自体、疑うべきなのだ。
校長先生の長台詞はつまらないと決めつけて、もはや眠ってしまうことがある。永遠と続く時間に、春夏秋冬というものさしで区切って断片化しようとする。
季節は四段階で繰り返されるから、人間は普遍に対し特別感を出そうとする。
ゲリラ豪雨。
熱射。猛暑酷暑。
暖冬。
落葉シーズン。
通勤電車。
桜咲く。散る。盛る。セミの音。
特別感が、終わりなく続くことはありえないから。
いつか終わりがあるから特別なのだ。
特別が終わって次の特別に気づき、もう始まっている特別に酔いしれ、終わって特別になる。
悠久たる普遍を細分化して、数多ある特別を配置した。特別は繰り返すから、終点があり、終わりがある。
人生に終点があって、そこで終わると事前にそう思い込みたいから。
本当は道半ばで終わると思う。
だって終着駅のホームすれすれに、電車が停まることはありえないじゃないか。危険だよ。
いつも一歩手前で停まり、そして、機械のベクトルは引き返す。
ここが真の終わりではないと知っているかのように。
僕は熱いホームで見送る。
8/11/2024, 9:44:50 AM