嵐が来ようとも、この勝負からは逃げたくない。
分厚い雲の、月光の一切届かない夜のタイトルマッチ。
昨夜から大ぶりの雨が降りまくっていて、風もある。
風にあおられ、雨にもあおられ。
十文字に区切られた大きな窓を、がたがた怯えあがらせている。
窓を斜めに流れ落ちている雨だった水の筋は窓ガラス上で何筋も分かれ、暗い視界に消える。あれらが自分に舞い降りていた可能性の光だったように。
孤島のなかのとある別荘。
周りは荒れた海に囲まれていて、定期便は来ない。
別荘のオーナーである国分寺崇名人の貸切別荘である。
そこに、今朝死体が発見された。
海から這い出て、迷い込んだイルカが砂浜で息絶えているようだった。
海の塩気と雨の水で、青い服はますます青くなり、当然身体はずぶぬれだった。
救急車を呼ぶには遅かった。
自殺…? と断定するほど、自分たちの目は愚かではない。
背中に突き立てた包丁が、慄然と立っていて、そこに犯人の不在と潜伏を表徴とさせている。
嵐の中の孤島。
逃げ場はないはずだ。
この中にいる。
いわゆるクローズドサークルと呼ばれる、生け簀のなかで上位の代物。
めったにお目にかかれない経験、実績、名人級のノーカット。
しかし、そんなものが無くても目の前の勝負から降りたくない。
将棋盤が置かれている。
現実からの息抜きのために置かれたもの。
国分寺崇名人から勝負を持ちかけられて、今勝負中だ。
歩を動かして防御に回るか、あるいは飛車を犠牲にして王手にするか。
あるいは…、この長考は重要だ。なぜなら。
「この勝負に勝ったら、犯人がだれかヒントをあげよう。次に死ぬのは私だ」
犯人なんていうものはもうわかってる。
だからこそ、この勝負から降りれない。
お祭りの最中のようだった。
自分を中心点として、半径数百メートルは自分の領域であると錯覚できるほど。闘争心の焼却具合である。
自分に近づく、ありとあらゆる者どもの駆逐するためのキャンプファイヤーの熱気が。
獰猛な突進をする野生のイノシシのような。
そういった熱気。温度。空気感。
それを心に感じる。
速く速く速く。
焼べなければならない。
逸る気持ちを押さえて、燃焼スピードだけを早める必要がある。
一方、辺りは静かなように思えた。
当然だろうか?
そうだ。
誰に言われたわけでもない自問自答。
意味不明な思考の暴虐。
慌てるな。
乱心具合。胡乱な目つき。
超過する集中力。溢れそうになる。
標的は一つのみである。
気を散らせる必要はない。
必要のない不要。
確認するまでもない不要。
他はどうでもよい。
その通りだ。
手首の動きを確かめる。
可動域はどうか。最大限の駆動感はどうか。
手首パーツのひねりはどうか。
それらを確かめるように、こきりと関節の音を唸らせて、精査する。
――いまだ。
彼は水音すらもなく、ポイを沈めた。
獲物である赤いヒレを透過するように、水面下ですべてを捕らえるかのように。
ポイを沈め、ひょいと持ち上げる。
神様が舞い降りてきてこう言った。
「誰か金を恵んでくれませんか?」
「え、神なのに?」人間は逆質問をした。
「人を救おうと、天から降りてきました。しかし地上では何やらお金というもので取引をしていますね」
「え、神なのに?」
人間は今さら何、みたいな言い方をした。
「それでまずは人の生活を間近で見て眺め、問題事を見出してやりたいと思ったのです」
「え、神なのに?」
人間は神を全知全能だと思い込んでいた。
喋ってみればなんだ、丸っきり無知じゃないか。
「今まで無関心だったのです。人間を作った後、疲れてしまって。だから、贖罪の意を込めて一から学ばせてください」
「……ショクザイ?」
「はい、贖罪です」
人間は返す言葉もなかった。やがて、
「ところで、今のあなたは神なのですか?」
「精神は神ですが、この身体は人間です。だから――」
次の瞬間、銃声が一発轟いた。
神様の頭に命中し、血しぶきをだしながら絶命した。
人間はひと通り死体を確認するも、やれやれとかぶりを振った。
銃声の正体は知っていた。
「おいみんな、自称神様の死体が獲れたぞ。どうする」
後日神様は、神様の供物になった。
神の言った通り、贖罪はショクザイとなったのだ。
誰かのためになるならば、あとで書くことにする。
今日はとても忙しい。
鳥かごほど空洞なものはない。
紡錘形の金網で、高さは50センチメートル。
生きた内容物が逃げないよう、隙間のあって、しかし逃げ場を許さない金属の細い棒がかごの周りを囲む。
中にはヒノキの木の太い台が組み込まれている。
外側に開く小さな扉がついていて、かごのてっぺんには小さな輪っかのついた構造だった。
しかし、もはや打ち捨てられたゴミである。
終末病棟の患者のように、かごの格好は横に寝転んでいる。
主はもういない。ゴミだからである。
主の主もまた、この街にはいない。
この街が廃街となって30年は過ぎようとしている。
理由は不明だが、人間たちが避難した主因の輪郭は、立ち込める自然の力によっていくらか推察することができる。
どこもかしこも家は廃屋となり、平らな道はどこにもない。道はひび割れ、小石にまで頽落している。
時折山からイノシシが降りてきて、いたるところでクソをして、それを放置するという。追い払う者がいないということだ。
主がいなくなったあと、ごみとなった鳥かごには幾つもの不法侵入者がかごの中に居座った。
ヘビ、カマキリ、アリ、リス、ノラネコである。ノラネコが一番期間が長かったが、死期を悟ってどこかへ行ってしまった。
かごの中の木の台座も、それらによる粗相で、今はもう木の破片となり、表面は黒く焼け焦げたようになっている。
防水のワックスは剥げ、触ることを消毒する事も躊躇うほどのおびただしい虫のついた安息の地となっている。
かごは、ゴミ捨て場に捨てたようなのだが、不法投棄しても問題ないほど様変わりしている。
アスファルトは腐り果て、地中から何かしらの植物が生え、緑のツルの侵略をされている。
そこに投げ捨てられた鳥かごは、今や路傍の石よりもはるかに目立たない金属片となっていた。
かろうじてかごだったという形を残すのみである。
この町はもう死んだと同然のものであり、人の姿は一人もいない。時間もまた死んだようで流れていない。
空気は淀み、天気も崩れぎみで、湿度も気温も不快感の先鋭化となっている。
居心地は悪い。不衛生なほどである。
遠くから小鳥たちの鳴き声が春の訪れを予感させている。巣作りのための材料を探している気がする。
小隊を組むように、そのものたちは、鳥かごだったものの近くに降り立った。
横になったかごの上に乗って、ツンツン、と短いクチバシで足元の具合を確かめる。
もはや金属としての抵抗はなく、卵の殻にひび割れるように。金属の細い棒はひん曲がり、やがて折れた。
その幼い攻撃により、紡錘形の形を失いつつあった。
一部をクチバシで取り上げ、小鳥たちは周りの様子を然として確認。そして飛び去っていった。
穴の空いた鳥かごは、まだ形を失わないで残っている。