もう何度瞳をとじてこの場をやり過ごしてきただろうか。
思ってもいない感情を口にして、感じてもいない甘やかな声を出す。
適当にこのじっとりとした時間をやり過ごしてただひたすらに金を稼ぐ。
借金の肩代わりに売られた郭。
いつかここを出られる、それだけを夢見て今日まで生きてきた。
「お前に身請けの話が来ている」
現実は甘くは無かった。こんな形で外に出られても所詮は籠の中の鳥である。
それでも首を縦に振る以外に選択肢は無い。
「待っておったよ」
身請けされた先は果たして今までの客の顔ではなかった。
何故、顔も素性も知らない自分を、大金はたいて身請けなんて、どんな酔狂人かと思えば。
白髪の、老人のような大男。片目だけ見えるその目は丸い三白眼で瞳の奥が赤く光っている。
最初に抱いた素直な感想がそれだ。
おいでおいでとやたら笑顔で手招きをする男。
どうしてか背筋に冷たいものが走る。
「何もお主を取って喰いやしない、おいで」
こちらの心中を見抜いたような台詞を口にする男。
失礼します、男の傍まで歩み寄ろうとするも、何故だかその場から足が動かない。
「……やれやれ、仕方ない」
やおら男の白髪がシュルリと伸びた、と思ったらそれは自分の全身に絡み付き、そのまま男の元へと引き寄せられてしまう。
「ば、化け物……っ」
しまった、と思う。相手は得体の知れない奴でこれから己の生涯を捧げなければならないのに、恐怖で口が滑る。
「まあ、そう怖がるでない」
慣れた口調で男は言う。
絡みついていた長髪はするりと男の元に戻り、ただの短髪に元通りだ。
ふと気を抜いた瞬間にぐいと腕を引っ張られて、そのまま男の腕の中にすっぽり収まってしまった。
「ほんに愛いのう、漸くこれでお主はワシのものじゃ」
なでこなでことばかりに頭を撫でられる。
初対面の筈なのに、この距離感はおかしいはずなのに、それが何故だかとても心地が良くて。
これからめくるめく身請けされた人間としての人生、決して生半可なものでは無い筈なのに、男の腕の中ふわりふわりと温かな微睡みへと沈んでいった。
「また会えたのう、𓏸𓏸」
腹がどうも、膨れてならない。
ポツリ、呟いたその台詞を聞いて確りと抱き締める。
「ようやったのう」
何が何だか分かっていないような顔、鳩が豆鉄砲喰らったとはまさにこのことか。
これでお前はもう逃げられない、そもそも逃がすつもりも毛頭無かったのだが。
儂からの贈り物、それはお前の預かり知らぬところで大事に大事に育ってくれていた。
「おのこかのう、めのこかのう」
その言葉を聞いた途端、みるみるうちに青ざめていくお前の顔。
それには素知らぬフリをして腕の中で震えるお前をより一層ギュッと抱きしめてやった。
まだまだ未知の領域をゆっくりと進んでいく。
傷つけないように、優しく、解すように丁寧に。
指の感覚だけでは分からないから、様子をしっかりと確認することがあなたの羅針盤になる。
突如ビクン、と跳ねる組み敷いた身体。そこには甘やかな声までついてくる。
思わず宝物を見つけた子供のように嬉しくなった。
「ここですね」
素直じゃないあなたは決して首を縦に振らないけれど、全ては身体に聞けば良い。
愛しい愛しい羅針盤。
昨日の仲間が今日は屍、なんてザラにあった。
生き地獄とは正にこのこと、生きてても地獄、けれど死ぬのは真っ平御免だ。
敵に突っ込んで行き、死を求める雄叫びを上げつつも、前日には心の底から生を乞うていた。
明日もきっと変わらない、死と隣り合わせな時間に向かって歩いていくだけ。
いつか終わるいつか終わる、そんな夢も希望も無い願い中で今を生きる。
一番近くで君をみていた。
何かに真剣に取り組む君の眼差し、打ち破れてくたくたに崩れるように眠る君の寝顔、泣き顔だったり笑顔だったり、ころころと本当によく変わるんだ。
君のライフステージが変わる度に少しずつ大人になって、精神面も強くなって。
これからも多分、君のことを一番近くで見ている私でありたいな。
ただ一人の大切な君へ。私から私より。