「は、い……もしもし……ッん、おっ、世話になっております……っぁ、れ、例の件、……ッにつきまして、はッ、え、あッ、す、みませ……っ、少々風邪気味……っん、でして……ッ、」
「あれ?風邪なんてひいてました?」
仕置きとばかりに電話の時も繋がったまま、話をさせている癖に何を今更白々しい。
しかし言い返すことも勿論難しく、今は只管この拷問のような時間を耐えるしか無かった。
女は坂道で自転車を漕いでいた。
考えなければならないことはたくさんある。
これからの子どもの進路先、旦那とのコミュニケーション不足のこと、ママ友グループLINEの返信と今晩のご飯を何にするかとか。
坂はどんどん傾斜が急になっていく。
独身の頃は自分だけのことを考えるだけで良かった。
いつの間に、周囲の人間が自分の人生を形作っていくようになっていったのだろう。
じっとりと背中が汗ばむ。もう降りてしまおうか。
その時、後ろから強い風が吹いた。
あと少しだった坂も、勢いのままペダルを踏んで頂上まで一気に駆け上がる。
きっと何もかも大丈夫だ。
なぜだかそう言ってもらえた気がして、女はハンカチでそっと額の汗を拭った。
君と一緒ならばどこまでも。
はるか昔、どこかで聞き齧った歯の浮くような台詞である。否、今ではそれがあまりにも心に染みるようになった。
「んっ……ぅ」
胡座をかく自分の上に無理矢理座らせて、突き刺すようにして身体を重ねる。
お前はもう、どこにも逃げられない。暗に身体にそれを分からせているのだ。
君がどんな場所に行こうが逃げようが隠れようが、必ず探し出す。
自分無しでは生きられない身体にしてやろうな。
腰を掴んで再度緩く打ち付けてやった。
久しぶりの穏やかな冬の昼下がり。
A子は一人、ベンチで手作り弁当を広げていた。
少しぐらい寒くても、ランチ会で周囲に気を遣うよりはこちらの方がよっぽど心が凪ぐ。
折角の昼休みなのだからこの時間ぐらいは誰にも遠慮なぞしたくない。
どこから嗅ぎつけたのか、おこぼれに預かろうととんできた鳩達が自分の足元をくるくると歩いている。
そんな光景に思わず口元が緩む。
願わくばずっとこんな日々が続けばいいのにな。
タコさんの形に切ったウインナーに箸を伸ばした。
朝起きて、隣に貴方がいてくれる喜びは何物にも代えがたい。
昔はよくお兄ちゃんに腕枕してもらったっけ。
その数年後、裸で腕枕してあげることになるとは思いもよらなかったけれども。
否、その時から甘酸っぱいような、それでいてどろどろとした独占欲のような相容れない想いが積み重なっていくことは分かっていた。
それが幾年の時を経て結ばれることになったのは多分幸せで、使い古された言葉を使えばこれが運命とやらなのかもしれない。
嗚呼、もうすぐ起こさなければならない時間だ。
けれどもあと少しだけ、この温かな気持ちを噛み締めさせてほしい。