いつになく早めに目が覚めた。
新聞を自分で取りに行くのも何年振りだろうか。
普段ならば家族の誰かが取ってくれているからだ。
郵便受けを覗くと、昨晩雨が降っていたからか丁寧にビニール袋が掛けられていた。
うーんと大きく伸びをしたB子は新聞を片手に家の中へと戻っていく。
今日は良い一日になりそうだ。
秋の爽やかな風が彼女の頬をそっと撫でて消えていった。
窓から見える外の景色は今日も変わらない。
人々は忙しなく行き交い、その隣を遠慮なく車が走り抜ける。
二度と会うことのできないあの人もこうやって東京の道を歩いていたのだろうか。
店員が持ってきた珈琲の香りが程よく鼻腔をくすぐる。
一度で良いから二人で顔を突き合せて珈琲を飲みたかったな。
先に行くなんてずるい、私もきっと追い掛けるからね。
旅立ちの日にぴったりなジャズのBGMが今はとても嬉しい。
忘れるなんて、そんなこと絶対にさせるものか。
誰かの記憶に強烈に刻みつけてやる。
それが私の最初で最期の復讐。
風がさわさわと木の葉を揺らす。
月の光が優しく男の顔を照らしてくれる。
包帯でぐるぐる巻きになっているけれども、目や口だけは表に晒されていて、以前と同じようにほんのり色気を感じさせた。
誰なのか思い出せないのにどこか懐かしいのはどうしてだろう。
その全身は酷く爛れていて不気味なのに何故だか涙が込み上げてくる。
男の唇が確かに己の名前を呼ぶ。
お前は誰だ。俺の名前を知っている、得体の知れないお前は。
月影に隠れてしまった男はもうそこにいない。
物心ついた頃には既にたくさんの同胞たちと世界を共にしていた。
狭くて身動きもまともにとれない、そんな場所に押し込められていると気付いたのはもっと後のことだが。
いつも通り1日1回の食事を待っていると、果たして扉から登場したのは知らない顔。
僕たちを見るや否や瞳に涙をためるその女とは裏腹に、怪しい人物だと認識した僕たちは一斉に睨みつけたり唸ったり吠えたり隠れたりして応戦する。
この女性が実は後に救世主として崇められることになるのをこの時の僕たちはまだ知らない。
向かい風がA男に遠慮なく吹き付ける。
急勾配の坂、一歩一歩進んでいるが正直かなり身体に堪える。
それでもこの歩みを決して止めてはならない。
高みを目指してあの方の元へ、仲間との誓いを今こそ守るのだ。
随分早めに来たというのに既に長蛇の列が出来ていた。
最後尾に並び、A男はリュックサックから宝の地図なるものを取り出す。
入念に書き込まれたそれを再度チェックした。
大丈夫、あの方は普段よりもたくさん刷っているとツイートしていたではないか。
自然と早鐘を打つ心臓を落ち着かせるように深呼吸を一つ。
地方勢にとって都会でのイベントは戦いだ。
飛んでいく交通費、宿泊費。あとは慣れない土地で彷徨いながら人混みに揉まれつつ、着々と削られる体力とか。
そんなものを差し引いてでも今回はどうしても参戦したかった。
同じく地方勢の仲間達の応援と願いとその他もろもろを背負ってA男はあの方に会いにいく。
普段のお礼をお伝えし、必ずや戦利品を持ち帰るからな!
握りしめた拳にぐっと力を込めて開場の拍手がなるのを只管待ち続けた。
……後にコミケの洗礼を受けることになるとは、この時のA男はまだ知る由もない。