今日は私が受け持つ生徒との面談である。
その生徒(以下生徒Aとする)は、普段は特に問題行動もなく、成績も安定していて、苦手科目も壊滅的というほどでもない。そもそも苦手科目を受験科目にしない進路選びをする堅実なのであまり心配はしていなかった。
「うーん、これといってないんですよねー……。なんか、もういいかなって」
教師生活にも慣れたのにすっかり忘れていた。こういった一見手がかからない子が一番心配になることに。
「何がもういいんだ?」
「兄もいってましたし、とりあえず目標ないけどM大にするってお話したじゃないですか」
「そうだったな、他に行きたいところができたのか?」
「実は前からあったんですけど、一人暮らしさせられるほど余裕ないからと言われまして。じゃあ似た学科があって近くにあったのでそこ提案したら、否定はされませんでしたけど『どうしてここなの?』『似た学科ならこの大学の方がよりレベルが高いんじゃない?』『結果的にやりたいことのためにはブランドも大事だと思うの』とかさりげなく? 僕の意思で自分らも納得出来る選択にさせようと感じるというか……。お金出してもらうんだし当たり前かもしれないんですけど、名前じゃなくてオーキャンみて決めたことで、冬に一緒に来てもらって説明してみたりしたけどだめで、なんか」
もう、わかんなくて。尻すぼみになっていく生徒Aの声から、珍しく涙を目に湛えているのを察して敢えて顔は見ずにiPadで開いた大学の資料に目を向ける。
親御さんの「せっかく上の大学に十分いけそうなのに」「勉強から逃げるためなのではないか」「就活の大学フィルターで苦しまないように」などといった考えは同じ親としてはよくわかる。しかし、私は親の指示に従い、自身で選ばなかった道は、結局最後まで割り切って自分事とは思えず何もかも失敗して、自分で決めたことになっていて人のせいにもできなくなった身でもある。
今、生徒Aは親の説得と一緒に自分が見つけたきらめきすら見失いかけている。
「今探してみたけどな、有名大ばかりで滑り止めは決めてなかったよな?」
顔を上げた生徒Aに続ける。
「ここなら、言ってたこともできるし、偏差値もお前なら普通に受かるだろうが馬鹿にはできない。有名大程じゃないが歴史もあって名もあるし就職率も良い。どうだ?」
こんなこと言って、生徒Aの将来を考える一人としてはそのまま背中を押すようなこともできず、折衷案を探すばかりだ。
立地もめちゃくちゃいいぞーとiPadを渡すと、生徒Aは気が抜けたように薄く笑った。
「とりあえず第一志望としてM大は受けます。滑り止めはここを受けさせてもらうように言ってみます」
先生が言ったといえば、納得すると思います。といって、その日は解散した。
いつ光るか分からない石ころを磨かせるより、綺麗なものを最初から渡したいのが親ってものかもしれない。しかし、自分で選びとったものほど人は大事にするし、きらめいてみえるものだ。そうじゃなきゃ、割れようが安く売られようがどうでもよくなる。そして、そうなったのは自分のせいだと、ずっと拭えない、戻せない過去にうっすらと後悔が残り続けるものだ。
【きらめき】
人の気持ちの話をしているのに、自分の中では些細なことだと決めつけて傷を大きくすることだけはしたくない。
【些細なことでも】
やる気、根性、怒り……生命力溢れるものに対して火の表現は多い。心に火がつく、心を燃やす、怒りに燃える、烈火の如く……。
あいつは、そんな熱い言葉が到底似合わないように思えた。燃え上がるよう言葉が似合う人間が多々いるわけではないが、あいつにはとくに人間的な温度を感じなかったのだ。
あいつは、何を言われていても特に変わりなくて、からかいがいのないやつだ。頼まれごとをすれば、できるかできないかしか考えていないようで、ある意味では、嫌な顔一つせずに引き受けているといったようであった。淡々とした様子に、周りは感謝ではなく「やるならもう少し快く言ってくれよ」とか「やってくれるとわかっていても頼みにくい」とか不満垂れていた者もいた。
嬉しいことでもなければ、嫌なことでもないからああなのだろうが、人間なら相手の反応とか、自分の損得とか、大したことではなくとを気にしたりするはずだ。言動が事務的なものばかりなせいで人間らしさが見られないと思ったのだ。
例えるなら、水だろうか。しかしあいつはわざわざ水を差したり、水を打ったように周りを支配するような影響力はない。ただいるだけで、水のように必要不可欠のような存在感はない。
ただそこにあるところは木か、しかし木陰のように安らぎをあたえてくることもない。火で燃え尽きるほどやわくはないだろう。
こんなことより、明日の訓練の準備をせねばと頭を切り替えた。
訓練が終わる頃、雨天により山で足を滑らせた仲間が怪我をした。その上、帰るための道も怪我人を抱えてとても通れない状態になっていた。
普段はうるさい面子も気落ちして、中でも一等明るく活発なやつも明らかに空元気といったようだった。
「帰れます。迂回して、別のルートで行きましょう」
いつもの、淡々とした声だった。
本当か、急にどうした、と口々に仲間に詰められたあいつは「いや、帰れないかもと言ってきたので」と返し、続けて帰還ルートについて話し出した。
周りが意気消沈して暗かった分、普段と変わらないあいつが頼もしく、仲間の心に灯火をつけたようだった。
あいつは炎ではないが、火をつけても燃やされない石のようであった。
【心の灯火】
隠しごとはお互いしない。というより、特に隠したいかとがないはずだった。
できれば知られたくない恥ずかしい過去や、目を見ていいいにくい後ろめたくなるような過ちがあっても、知られたところで何を今更、言うまでもないけどわざわざ隠してたの、恥ずかしいかなって、と笑いあえて、信じられる仲だった。
信頼しているから、恋人同士、スマホの中を何でも見せあえるでしょと強制して喧嘩するようなことはしない。けれどメッセージを代わりにみるくらいは自然と許されているような仲ではあった。
恋人のLINEの通知音が珍しく騒がしいのが気になって、恋人も普段と同じように、なんてきてるー? と聞いてきたから、LINEを開こうとする。
が、いつもはないロックがかけられていて、メッセージは見れなかった。
ロックかかってるからできない、と彼にスマホを直接渡すと、あーそうだった! とLINEは開かずそのままスマホの電源ボタンを押して画面を黒に塗りつぶした。
ああそうだった。恋人は隠しごとが下手で、私がそれとなく薄情しやすいようにしていただけだったことを思い出した。
ああ嫌だ、そればかりはどうにもできないよ。
【開けないLINE】
何の心配も知らない、完成された人に憧れないわけじゃない。
しかしなってみたいかと聞かれたとき、いつまでも不完全であることを認められる私でいたいと思ったのだ。
完全である、ということは全てが分かりきっていて全てが決まっていることということだ。
完全になってしまえば、もう誰の声も、私の声すら聞かなくなるだろう。
この世にはまだ聞いていない声がある。
【不完全な僕】