『終わり、また初まる、』
けたたましく燃え上がる巨大な方舟。
轟く民衆の叫び声。
その声の中には怒りも悲しみも喜びも入り混じっていた。
とうとう船は燃え尽きて、海へ沈んでしまう。
この船はもう私たちを何処へも連れていってはくれない。
一体誰のせいなのか?
人々は誰1人として違わずそれを他責だと捲し立ててはいるのだが、
船に乗る全員が当事者であった事は間違いない。
もう後の祭り。
今更何を言ったところで、やり直すことなんてできやしないのだ。
今までの生活は終わり、また初まる、明日からの暗い未来について考えるしかない。
『星』
「お前より使える人間なんて、星の数ほどいるんだよ!」
怒鳴り声とともに振り下ろされた拳には、躊躇いなど何一つ感じられなかった。
汚れた灰色のタイルカーペットで辛うじて受け身を取り、片方の手で擦れた唇から流れ落ちるものを受け止めながら、私は上司を睨みつける。
「おい、なんだその眼は?」
私がよろよろと身を起こそうとする度に、横腹を爪先の長い焦茶色の靴で突かれた。
「もう一回聞くぞ。お前のその眼はなんだ?」
この男に逆らえない事を悟った私は仕方なく顔を伏せるのだが、
その瞬間、ずしりと背中に重みがのしかかる。
「…」
奥歯を噛み締めながら、私は背中の重みに逆らわないようゆっくりと体を持ち上げ、
溢れそうになる涙をこぼさぬよう、必死に堪えながら、私は謝罪の言葉とともに深々と頭を下げた。
「…きったねぇなぁ、ゴミクズが」
そう吐き捨てると、上司は私に背を向け去っていった。
ミスをした私が悪いのか、
ミスするほどの量の仕事を押し付けた上司が悪いのか
断らなかった私が悪いのか、
断れない頼み方をする上司が悪いのか。
上司は私より経験があり、私より優秀だ。
しかしながら、
私からすれば上司の実績など関係なく、上司からの指示は絶対であり、それを拒否する社会的道理はないと考える。
その筋を通すため、
私は必死に努力をし、死ぬ物狂いで成長を目指すのだ。
だがその度に私の仕事は際限なく増え続け、
そうして私はまた大きなミスを犯す。
その理不尽のお陰で世の中が成り立っていることに、
彼らはどうして気づかないのか。
私は裂けた唇を噛み締めた。
『ココロ』
夕焼けに染まった街の中。
帰路に流れる人々の合間に紛れると、ふと、背後から私を呼び止める声がした。
『ねぇ』
振り返ると、少女が私の服を小さく引っ張っていた。
「どうしたんだ」
私が問うと、
少女は銀髪から覗かせる、ぼんやりとしたエメラルド色の瞳を差し向けて、
『ココロって、何?』
と、私に問いかける。
「…」
冷めた視線を送る私を見て、少女は不思議そうに首を傾げた。
おそらく少女は私が質問に答えるまで、ここを動くことは無いのだろう。
私が小さなため息を吐き、諦めた素振りを見せると、
少女の瞳が少しだけ輝いたように錯覚した。
「心ってのは、人間の行動や感情の元となる原子のようなものだ。たとえば、いま私が立ち止まってお前と話をしているのも、私の心が作用しているおかげだろう」
そう私が答えると、
少女はまた不思議そうに首を傾げる。
『それは人以外の生き物にもあるの?』
「あるさ」
飼い主に愛嬌を撒く愛玩動物や、
野生動物たちにも心が通っていると私は思う。
もっと言うと、私はどんな生物であれ、
思考や感情を持つものであれば、それらが行う行動には必ず、心が作用しているのではないかと考える。
「これで質問は終わったか?」
少女はしばらく何も言わなかったが、
どうやらまだ気になることが見つかったようで、再び私に問いかける。
『ねぇ』
『どうして貴方は、心が無い私をここから連れ出そうとしてくれるの』
無機質にこちらを見つめる少女に対し、
私の態度は相変わらず冷めきったままだった。
「お前が人間かどうかなんて関係ない。お前はいま、俺がお前を攫った理由が知りたくて、俺を止め、俺に質問をした」
『…』
「この行動は一貫して、お前がお前自身で考え、お前自身が判断して、実行したものだ。たとえその動機がどれだけ無機質なものであったとしても、この一連の動作の原因を俺は”ココロ”と表現する」
少女はみたび、首をかしげた。
『…質問の答えになってない』
本当は私だって分からないのだ。
そもそも心なんてものは、とても抽象的な概念のようなものであって、
生物の身体の一部として備わっている訳ではない。
心の有無を確かめられるのは、当の本人だけだ。
考えれば考えるほど、
心とは何なのか分からなくなる。
逃げ出す時に無抵抗で引っ張られてくれたこの少女を、
私はどうしてやりたいのか、なぜそんな事をしてしまったのか、
考えても考えても、心の動機が分からない。
一体心とは何なのか、
私に分かる日が来るのだろうか。
『星に願って』
灯りひとつ無い寒空の下。
丘のてっぺんで寝転がって見上げると、
夜の海を照らすみっつの二等星。
オリオンが大きな腕を振り上げて、獲物を狙っている。
広大な星空の眺めは、街の下からじゃ絶対に拝めない。
今だけは、私だけのもの。
オリオンは一体、何を狙っているのだろうか。
きっと、あの輝くふたつの一等星たちには、
オリオンの獲物が分かっているのだろう。
私だって知っている。
空の星に願っても、何も変わらない。
願うだけじゃ、何も変わらない。
だけど、それで十分なのかもしれない。
いつか私もあの場所で、
オリオンと共に狩りに出かけることができるのだろうか。