『はじめまして』
「……はじめまして…」
彼女から飛んできた言葉に、俺は膝から崩れ落ちそうになった。そこは病室だ。パンパンに詰められた白い部屋に、柔らかな一輪の花が咲いている。そう、彼女だ。
「あの、………はじめ、まして」
記憶を飛ばす前は恋人でしたなんて、なんだか伝えるだけでも情けなくなって泣いてしまいそうだった。
「ええっと、お名前を伺ってもいいですか」
「名前ですか」
「はい、名前」
「…そうですね、……」
俺は彼女に向かって口を開いたが、悔しくなってやめた。あんなに俺の名前を呼んでくれた彼女が、病気ごときで俺の名前を忘れるはずがない。
「……なあ、ほんとに何も覚えてないのか」
「……、……はい、すみません…」
「あーいや、謝ってほしいんじゃなくて」
「すみません、あなたには会ったような気はするのですが、どうも思い出せないんです」
「…そう、ですよね」
「ごめんなさい」
「いや、ほんとに大丈夫ですから。あなたもつらいでしょう?」
彼女は曖昧に笑って、俯いた。こんなこと聞かなきゃ良かった。窓の向こうを見ると、桜が満開だった。春にしては寒い日だけど、それでも桜は咲いている。笑っている。こんなに寒々とした春もはじめましてだな、と変なことを考える。
『またね!』
卒業式が終わって、春休みももう少しで終わってしまうような時期になっていた。桜のつぼみは膨らんで、咲き始めようとしていた。
そんな頃、あなたと2人で遊園地に遊びに行った。4月から違う学校に通うあなたとは、これからしばらく会わなくなってしまうとわかっていた。だから、この恋もこれで最後にしようと思った。時間はどんどん過ぎ去って、気づけばもう夜だった。帰りの電車は、あなたの肩に私の体を預けて、あなたの他愛もない話を聞いていた。これが最後とは思いたくなかった。
「お前と会うのこれで最後だからなー」
「学園祭行くから会うよ」
「最後だからなーー」
「会いに行くってば」
「ね、車の免許取ったら教えてよ。俺をどっか連れてって」
会いたいのか、会いたくないのか。さっぱりわかんない。遅くなったけどホワイトデーのお返し、って言われてもらったお菓子はマカロン。意味は「あなたは特別な人」。
「──もうつくね」
やっぱり、最後にするには少しもったいない。あなたのその寂しそうな声は、私の勘違いではないと信じているから。
「そーだね」
「じゃあ、またね」
「うん、またね!」
あなたはそう言ってにっこり笑う。「じゃあね」でも「バイバイ」でもなく、「またね」って。私、やっぱりまだ終わりにしたくない。そう思いながら、軽やかに駅の階段を上っていった私。単純だな、って笑ってよ。
『涙』
一緒に同じ学校に受かろうって言ってたけど、
私だけ落ちちゃった。
悔しすぎる。
でも、あの人が受かっててよかった。
ほんとよかった。
自然と涙が溢れてくるんだけど、
自分の不合格が悔しくて泣いてるのか、
あの人の合格が嬉しくて泣いてるのか、
全くわからない。
『小さな幸せ』
あなたがいること、って言おうとしたけど、
それはあまりに大きすぎた。
ささやかで、それでいて最大の幸せだった。
『もう二度と』
朝──まだ寝ている体が、こんな言葉を耳に入れたらしい。
「聞いて!おれ彼女できた!!」
その声の持ち主は誰かと辺りを見渡せば、そこには彼がいた。彼──言葉を変えるなら、「好きだった人」であろう。恐らく、まだ寝ぼけているから、そんな言葉が聞こえたように思っているのだろう。勘違いだ。そのはずだ。でも、続く声は「おめでとう」だった。今ので目が覚めた気がする。多分これ、夢じゃない。
ああ、そっか。今、私、失恋したんだ。なるほど、そうなのか──うん、夢だ、多分。
昨日までの彼に、そんな様子はなかった。おかしいと思うのだ、きっと一目惚れでもされて、その勢いで告白されて、ちょっと舞い上がっちゃって大して知らない人の告白にOKしちゃったんだ。彼なら有り得る。やりそうだ。
彼は私と目が合うなり、同じように彼女ができたと報告した。うん、聞こえてたけど。夢、じゃなかった。
「おめでと、末永く幸せにね」
はあ、こんなつらい朝も久しい。相手の名前くらい聞いてやりたかったけど怖かった。勝てない相手の名前なんて知っても意味ない。自分が惨めになるだけだ。
こんなんなら、もう二度とあなたを好きになったりはしない。