遠くの空へ
何処までも飛んでいって欲しかった。
若さという翼を持ったまま、遠くへ。
自分はそれを、視界の入らない後ろから見守っていれたら、それで良かった。
なのに。
「……お前、海外転機は?」
「蹴った」
別れたはずの恋人は玄関先に現れた。スーツケースを持ったまま。
引っ越し作業中だった俺は軍手のまま頭をかいた。
「正確にはプロジェクトのお膳立てしてそのまま丸投げてきた。…そんなわけでまたここに住むから、引っ越し中止して」
「いやいや、いやいや」
「キャンセル料とムダになったダンボール代払うから」
「それは正直助かるがそうじゃなくて!」
我が物顔でーー実際住んでいたのだから当たり前なのだがーー部屋の中心に入り、スーツケースに腰をかけてジャケットを脱いだ。
「だってどう考えても原地の人に任せた方が良い企画だったし、かといって何もしないのも無責任だし」
「…別れたよな? 俺ら」
「アンタが勝手に私を推薦して外堀埋めただけ」
肩かけバックからペットボトルを取り出しフタを開けた。パキ、と乾いた音が響く。
「あ、これ泣きついたぐらいじゃ撤回しないわー。って気づいたから住民票抜いて向こうの仕事終わらせて戻ってきてやろうかと。…どうする? アンタが断ったら私ホテルか漫喫暮らしだよ? あー困った」
「困ってんのは俺の方だよ!!」
人がどんな思いで一大決心したと思ってやがる。
この、十四も年下の女を、こんな金も地位も碌にない、中間管理職のオッサンから解放してやろうと。
ついさっきまで、どんな思いで、二人で暮らした部屋を片付けていたと。
「お前の未来を思ってだな…」
「未来、ね。……ある程度は、アンタの言う通りだと思う」
そっぽ向いていた視線をこちらに向けた。炭酸水を飲みながら、ゆっくり話す。
「私はね、何処でも行ける。短いけど海外生活も悪くなかったし、あっちの人達との仕事も面白かった。やっていける。選べる。何処にいたって、羽ばたける」
「偉い自信がおありのようで」
「アンタがそう言って突き放したんでしょうが」
ペットボトルを持つ手で指を指した。中身が溢れて、フローリングが濡れる。
「認めるよそれは。アンタが評価してくれたんだし」
「だったら…」
「だから、飛ぶ"空"は自分で選んだ」
そう言って立ち上がり、近づく。
目線が少し低い。だが真っ直ぐな瞳がこちらを貫いた。
「私が、選んだ」
「………」
「アンタが、私の"空"だよ」
ふっと小さく、優しく笑う。
俺の、いっとう好きなコイツの表情だった。
言葉にできない
息が止まる、とか。
何も考えられない、とか。
ただ理由なく涙が溢れる、とか。
自分を創ってくれた全てに感謝をする、とか。
ジーザス、とか?
“言葉にできない”
感動や衝撃を文章にするという矛盾。
書き手にとっての永遠の課題である。
春爛漫
(…には程遠いんだよなぁコンチクショー)
仕事からの帰路に付きながら、女が無言で歩いてた。
一見は静かだが、頭の中は罵詈雑言でいっぱいだった。
(北海道じゃ桜どころか梅もまだ咲かない。
同時に咲くのが良い、なんて言うけど、あれは寒い冬空にちょっとずつ咲くのがオツなんじゃないか。
生暖かい空気の中で派手に開花している様は好きじゃない。完全に好みの話だけども)
(生暖かい、といえば今日も鼻水が止まらなかった。花粉症じゃないけど、寒暖差アレルギーがひどい。
そもそも冬の寒さにやっと慣れた頃にぶわっと温い空気が来るんだからそりゃ身体も追いつかんわ。
いや、ずっと寒いのも嫌だけど)
(暖かくなれば虫が来るよなぁ。冬の長所は虫がいないことだよな。花は好きだけど虫は嫌い。特にカマドウマ。
スズメバチも年々増えてる気がするし、今年こそ網戸買お)
(あー春嫌い。バレンタインからホワイトデーまで忙しないし卒業入学には縁無いしであっっっという間に雪溶けてるあのスピードが嫌。うっかり一年の4分の1終わってるし。あと半月でゴールデンウィークとか嘘だろ。休みは早く来いって思うけどさ)
こんな感じで歩いてた女は、ふと、足を止めた。
やけに明るい。
(あ、今日満月か)
天を見上げる。
普段より低い月が大きく、色は金にも橙にも見える。発光のせいか夜の闇が薄く感じた。
冬の間の重たく深い色をした黒とは違う、優しく、ふわりと感じる夜だ。
(春は嫌いだけど……春の月は好きだなぁ)
春の月は春霞ともいう。
空気中の水分が霧や霞を発生させ、月を朧に感じさせると。
何かの本で読んだ。
(まぁごちゃごちゃ言っても思っても、どうせ春は巡って来るんだ)
だったら、好きなものを一つでも見つけて。
せいぜい、楽しむしかない。
(毎年、同じ結論出して………結局は変わらない自分が嫌なだけなんだよな)
女はがしがしと、頭をかいた。
春爛漫とは、花や命の勢いが満ち溢れていることを指す。
この女の愚痴も春への抵抗も、命の勢いの一つである。
誰よりも、ずっと
「はいよ、これあげる」
「コーヒープレス?」
「お、知ってたか。紅茶にも使えるから、いいっしょ」
「匂いついてるから要らない。……それ、親父の形見の一つだろ」
「流石。わかるか」
「お前が持っとけよ。薬缶もサイフォンもまとめてもらったんだろ?」
「まぁ道具は一式………一つぐらい、息子が持ってても…」
「死に目にも会えなかったのに?」
「……」
「…何年も会ってなかった実の息子より、愛するコーヒーの弟子の方が喜ぶだろ」
「………」
「………」
「…これ、コーヒーの匂い、しないんだ」
「は?」
「明らかに使用済みなのに。ほら、蓋の裏嗅いでみ」
「………紅茶、の匂い」
「師匠、たまに飲んでたみたいでさ。俺も亡くなってからこれ見つけて知った」
「………」
「………」
「…命日の、年一じゃなくて。もっと頻繁に、思い出してやってよ。これで紅茶淹れながら、さ」
「………」
「………」
「……やっぱ、要らない」
「っ、意地張らな…」
「こんなモンなくても、思い出せる」
誰よりも嫌いだったから。
誰よりも鮮明に思い出せる。
物や匂いに頼らなくとも、ずっと。
「口喧嘩の記憶、ばっかりだけどな」
これからも、ずっと
−−−−俺が死んだら線香はコーヒーの香りのやつにしてくれ。40年以上の付き合いなんだ。あの世に行ってもこの香りに包まれていたい。
「…だからってアウトドアのコーヒーセット一式持ってくるか? 墓の前に」
「湯気も煙みたいなもんだろ。どうせなら本物の方がいい」
ゴリゴリゴリ…
「しかしまぁ、確かにいい匂い」
「だろ?」
「つーか住職が良く許可したな。いくら平日の真っ昼間で人が少ないとはいえ」
「『弁当広げたり花火するよりマシですよねー』って言ったら折れてくれた」
「それ、脅し?」
「本当にそういう地域があんだよ」
コポポポ… コポッ
「お、膨らんだ」
「朝の焙煎したてに、たった今引きたて。そりゃコーヒードームもぷっくぷくだよ」
「親父はこれの二倍ぐらいデカくしてたけど」
「あれ同じ豆使っても出来ねーんだよ。どうやってたんだろ?」
カチャカチャ カチャン
「ほい。献杯」
「さんきゅ。………酸味きつい、甘味にトゲがある」
「甘味はともかく、酸味はお前さんの好みだろ」
「オレ紅茶派だし。だから親父のコーヒーあんま飲まなかったし」
「知ってるっつーの。だから師匠の店継がなかったんだろ」
「お前が継げば良かったのに」
「駄目だそれは」
ふーふー ズズッ
「生きているうちに、師匠の味出せなかったもん」
「……同じ味にこだわらなくても、良かったと思うけど」
「じゃあ2代目名乗る理由がないじゃん」
「………」
「………」
「…師匠はさ、コーヒー愛してたから」
「…うん」
「あの味超えるぐらいじゃなきゃ、って思ってた。間に合わなかったけど」
「うん」
「……………」
「…多分、さ」
「うん?」
「生きてても、越えられなかった。多分、一生」
「………。まぁ、そうかも」
「そんぐらい、ウチの親父はデカかった」
これからもずっと、越えられない背中を思い出す。
思い出しながら、生きていく。
「…まぁ、来年はもっと美味く淹れてくれよ」
「言ったな? 付き合ってもらうからこれからもよろしくな」
カチン