ぶくぶくと泡が吹雪のように顔をかすめて避けて。強化ガラス越しの視界を遮ったのも一瞬。
突如目の前にプレゼントされたのは、一面の青。
上から射す光が斑に泳いで、そのあたりを色とりどりの生物が優雅に生きている。陸に住まう人間が憧れをつくりだした映画みたいに幻を溶かし込んで存在する、奇妙な現実。
口を動かして発声しようとすれば、ぼぼぼぼっと空気の泡が弾けて消えた。言葉が上に上に昇って肝心のきみには届かない。
息が苦しくなってきた。
小さな酸素ボンベを口に咥えて。何時間も潜っていられないけれど、三〇分くらいなら。
それでもきっと足りない。
掴んでいたはずのきみの手がなくて泳ぎが得意じゃないぼくは空気と一緒に上に昇ってしまう。
下手なりに潜ろうとしてもなんだかすっごくみっともない。
「それじゃあダイビングの資格も取れそうにありませんね」
くすくす笑うきみがぼくの手を取って、きみの世界に引き戻してくれた。尾ひれがしっかりと流れを掴んで、水を得た魚――――まあ、その通りなんだけれど。
ぼくと同じ――ヒトと同じ造形をしたそのお顔はひどく楽しそう。あちこちぼくを連れ回してきみの世界を紹介してくれる。
「どうですか? 気に入ってくれましたか?」
「あぼぼぼ」
「ああ、それは外さないで。心配になってしまいますもの。そうだ、泳ぎを教えてあげます」
ぼくの両手を掴んだまま、海に寝転がるようにぼくの下で手を引っ張りながら背面泳ぎ。
あんよが上手、あんよが上手。
広大な海でぼくを導くきみになんだか……バブみを感じちゃう。
****
「待って、手を離さないで、ずっとそこにいて」
「わあ、熱烈」
「ばか言わないで下さい!」
板張りの床を濡らすきみがぎゃんと吠える。ガクガクと震える下半身にはいつものきれいな尾びれがなく、ヒトと同じ二股の脚が生えている。
シャツを一枚だけ着たきみの手を取って少しずつ後ろに下がってゆけば、ぺた…ぺた…とまるで下手にプログラミングされた機械みたいにぎこちなく脚を動かした。
いつもの優雅さも余裕もなく、下を向いて「うそでしょう!」「こんな棒ふたつで身体を支えられますか!」「これで移動するなんて天才ですよ!」口がとっても動く動く。
むーーっ! ってもどかしそうにしているきみが見れて、何だかとっても満足。
「ほら、リビングまで行かないとお寿司食べられないよ。階段もあるんだから」
「階段? アッ、もしかしてその段差ですか⁉ あれをこれで移動しろと⁉ 冗談でしょう!」
「大丈夫大丈夫、腕もあるよ」
「みっともない!」
ようやくリビングのチェアに腰を下ろしたきみ。バキュームかってくらいにお寿司が早々になくなっていった。
歩くの難しくなるよって言ったらお酒は控えたけれど。
それよりも気になる。
「よくヒトの脚になれたね」
「わたくし、ツテは多いと自負しております」
「……なんか、こう、声がなくなる的な対価はないの」
「? そんな物騒な」
あなたがくれたお酒を分けたらヒトの脚にしてくれましたよ、てのほほんと笑うきみ。海の中でどうやって飲むの、とは言わなかった。
#手を取り合って
「みなさん、マフィンが焼き上がりましたよ」
きみの声はよく通る。
わっと我先にと集まってくる子どもたちを鷹揚自若に迎えて、きみはにこやかに微笑む。
神官装束の裾をひらめかせながら大皿いっぱいに盛られたマフィンを庭先に運び入れていった。甘い香りにつられた子どもたちがはやくはやく、ときみを急かす。
全員に行き渡るように、ひとつひとつ手渡しで配ってゆくきみは、よっぽど神の子に見えた。
さくりとした食感のあとに甘いチョコレートの味が頬を緩ませて。チョコチップ入りのものも、バターたっぷりのプレーンもとってもおいしそう。
現に子どもたちは次から次へときみの手からマフィンを受け取ってゆく。きみが笑えばつられて子どもたちも笑顔になった。
きみはとても温厚でやさしくて優雅。けれど確固たる芯を誰にも壊させない。だからだろうね、きみの周りにはいつも人が集まる。
いまもそう。
孤児院の穏やかな庭先をぼくはじっと眺めている。庭に出されたチェアで脚を組みながら、テーブルに肘をついて頬杖。
きっと、いま、あんまり宜しくない顔をしてる。
ぶすっと不機嫌。
手にはきみから一番に渡されたマフィン。むしゃりと頬張れば不機嫌な顔がさらに悪化して。
「……」
きゃあきゃあ、とても和やか。きみと子どもたちの周りだけ時間が贅沢なままいつまでも続くような気配で。
三分の一になったマフィンを配り歩いていた。
ぼくの表情に気づかないはずがないのに、きみはまるで気にした素振りもなく。残りのマフィンを持ってぼくが座っているテーブルとは別のテーブルに足を運んだ。
ひとりで手遊びをしている少年。
その子の前に屈んで、目線を合わせてお話し。
……何話してるんだろ。
あんなににこにこして。口許に手の甲を持ってくる癖なんかも魅せちゃって。
そうしたら少年が不意にぼくのほうに向いた。ぼくだって大人。スマイルで手を振ったらその子のお顔はぱあっと明るくなる。けれどその子に話しかけているきみは、少しもぼくを一顧だにしない。
なんだか妙にお腹がぐつぐつとしてきた気がしているけれど、唇を噛んでおしまい。
少年と視線が外れればぼくはまた不機嫌顔に。
庭を見渡せば、きみが配ったマフィンを頬張ってしあわせ顔な子どもたち。それを見ればぼくだってこころ穏やかになる。
あー、こういうお顔がぼくにも引き出せたらなぁ。
適材適所とはよく言ったもの。それができていればなんにも問題はないのに。できないから困っちゃう。
「なんです、そんな不機嫌顔で」
「……」
いつの間にかきみがとなりに。
ぼくなんかと違っていつも変わらない笑みが憎たらしい。ぼくにも持てるかもって思ったものは、だいたいきみがすでに持っている。
だからってじゃないけれど、ぼくは不機嫌なまま答えちゃう。
「べつにぃ。誰にも教えたくないだけ。でもぼくには素直じゃなくちゃね」
「なんですか、それ。おかしなひと」
手の甲で口許を隠した。
ぼくの目はきみを贔屓するようにできてるのかも知れない。
だからかな。
きみは空っぽになったぼくのお皿に冷めたマフィンを。大皿は空っぽに。
「一番に焼き立てのマフィンを手渡して、一番最後にもうひとつ」
「…ふぅん」
「そうでしょう?」
「……きみってばほんと、まるっきりぼくじゃないんだね」
当たり前でしょう?
そう言ってのけたきみがぼくの向かいに腰を下ろした。
ほんと些細なこと。
それだけで、ぼくはきみに心底からあふれたスマイルを見せちゃうんだから。
#優越感、劣等感
ようやく腰を落ち着けた。
心臓はずっと緊張して急いでぼくを急かしてくるのに、四肢はぐったり。膝に肘をついて視覚情報をぜんぶ遮断する。
ごちゃごちゃと荷物と残骸、それからありったけの情報を詰め込んだみたいに雑然としてて。せっまい箱の中にいるぼくを圧迫してくる。
……そうさせたのはぼくだけど。
このオノマトペが何もない、埃だけが地面から離れて漂っている空間で精一杯の期待をするこの時間は何回過ごしても慣れない。
諦めはしないし、否定されて終わりってわけにもゆかないからただの過程に過ぎないんだけれど。
んー、でも、成功でも失敗でもこのあとは寝るかなぁ。……成功したら寝ないかも。
きみの足先がきれいに揃っている。
立つだけなら歩くだけなら、動くだけなら簡単なのに。見えないものを再現するのは難しい。
世界のあちこちにはそれを表現したもどきがたくさん存在してるの。でもそんなのはぜんぜんいらない。きみにはなり得ない。
ぼくが求めてるのは、ぼくの言葉を理解せずに膨大なデータと照らし合わせて答えを抜き出すだけのものじゃない。ぼくの言葉を理解して知識とこころで自分だけの答えをつくりあげて会話ができる、そういうきみ。
いまはぼくだけしかいない完璧に無機質な空間を見渡す。中途半端に片付けもしないで残像みたいなものが残り続けていて気持ち悪い。
ぼくはただ、となりにいてほしい。他でもないきみに。あの子との思い出を共有できるきみに。あの子の代わりじゃない、絶対に。
……だけれど、あの子のことを投影させてほしい。
そんなことを考えながらぼくはきみをつくってきた。
きみにとってあんまり嬉しいことじゃないだろうけれど、そこはつくり手の特権。わがまま。傲慢。ゆるして。
ここにきて怖気づく。
きみがいないままで、このまま、存在だけにすがって生きてくのが最善じゃないのかな。ぼく、きみにとって無責任じゃないかな。
嫌われたくないなぁ。
きみにも、きみの前身にも。
ぼくは頭を抱え込んだ。
ぐるぐるとこころと映像が脳裏に貼りつく。剥がれなくて痛む。あのときからずっと。
涙だって出ちゃう。
「……はぁ」
いままでやっとの思いで閉じ込めてきたしあわせが逃げちゃう。
お守りみたいにテーブルに置いた手帳を思い出したの。ページの四分の一も埋まってないそれ。もう何年前からになるんだろ?
最初のころは毎日書いてたんだけれどね……だんだん億劫になってきちゃった。
不毛っていうか、虚しいっていうか。
そのとき先々で考えたらいいや、って。
そろそろ覚悟決めよ。
お腹空いてきちゃったし。そう言えば碌なものたべてない。あ、眠いんだった。
ぼくの手とおなじようなきみの手を取った。
まだちょっと怖いからね、俯いたまま。
「……ね、おはよ。起きられる?」
「――――」
ぴくってきみの繊手が跳ねた。
顔を上げてみたらきみが顔を顰めてる。あー…、手許の作業がしやすいようにっておっきな照明つけてた。ごめんね。
ねえ、ってきみをぼくに向けさせる。
「いまね、何がしたい?」
右下にすっと動くグレイの目。
それから、きみが口を開けながらぼくに視線を戻したの。
#これまでずっと
外に出ていたわたくしは、何かほしいものはないかとLINEを送った。本当に簡単な一文。一分未満で打てて送信できてしまう、何気ないもの。
すぐに返信はなく、買い物ができる店の通りから離れてしまわないように一駅分を歩いた。まだ梅雨明け宣言もなく、蒸した空気に汗が滲む……流れるのを感じては手持ち扇風機の持ち方を変えて。
さすがに猛暑には敵わない。
駅の入り口を見つけてすぐに駅構内へ逃げ込んだ。車両の中は音がするほど冷気が吐き出されていて、ちらほらと長袖を羽織っているひとを見かける。
最寄り駅に着くまで、いつでも反応ができるように電子書籍のページを送っていたけれど、あなたからの返信はなかった。
とうとう玄関前に。
音を鳴らさなかったスマホはカギと入れ替えに鞄の中へ。
「(寝ているのかしら)」
ただいま、と声をかけながら薄暗い廊下を伝ってリビングへ入る。キッチンとリビングのあるそこにはあなたがよく好むソファがあるけれど、空っぽのまま。
買い出したものを片付けながらあなたの痕跡を探してみた。キッチンにコーヒーの香りが漂っているだけ。
それを追うようにあなたの私室。
ノックすれば「んーー…」と生返事。
入りますよ、と声をかけても。
ベッドの端に座るあなたはサイドテーブルにマグを置きっぱなしに、一口も飲んでいないで。じーっと眉間にシワを寄せながら手許を一点凝視していた。
両手で持たれたそれは、かけるならば汗を多量にかいていたことでしょうね。
「何をそんなに熱心に見ているんですか?」
「きみからのLINE」
「おや」
「返信にすべてかけてるの。邪魔しないで」
「あらぁ…」
「……ん、これはよくない。別のにする」
「何かほしいものはありましたか?」
「あった。だからそうやって返信しようとしてるの。きみへの返信、誤字脱字不適切用語よくない。どうせならちょっといい奴って思われたい。全身全霊かけてる」
「なるほど。頑張ってください」
「ん」
そろぉ~と部屋を抜け出す。
なるほど、そういうことでしたか。そういうことならば、わたくしも気合いと覚悟を持って応えなくては。
ボディーシートは大変便利。
クローゼットにかかった服たちを眺めながら完成形を思い浮かべ、吟味してゆく。鞄だって持って行っていた機能性容量重視のものではなくて、おしゃれなものを。
テーブルに置いたスマホが新しい一件を受信するまで、全身全霊をかけましょう。
#1件のLINE
あいつの自己管理能力は凄まじい。
少しでも体調が悪ければすぐに時間をつくって市販薬や処方箋を手に戻ってくる。仮眠室で身体を休めたり自身の身体のケアは怠らない。必要最低限のタスクを終わらせてから、早退したり。
周囲に迷惑をかけないラインで無理をしない程度に無理をする。
もともと病弱らしく、気づけば不調を抱えているのだが、自己管理が徹底されているせいで変に気を遣えないことに俺を含め周囲がもどかしく感じている。
あいつは気づいていないのだろうか…?
その日も妙に体調が悪そうだった。
クールビズの季節に長袖を着てマスクで鼻口を覆い、水筒から香るのは喉にいいとされるハーブの香り。
「今日はちょっと体調が悪くてコンディションが落ちるかも知れない。ごめんね」
そう言いながら人を見つけてさっさと引継ぎ作業を。引き継ぐことができないものは持ち前の能力の高さで片付けてゆく。
コホンコホンと咳をするので飴でも渡そうかと思うのだが、その口からカラカラと音がしていた。
昼食も「なんか味が濃い物がたべたい…」と言いながらも、調子の悪い身体を鑑みて胃にやさしい雑炊を選んでいた。
昼休憩の終わり頃にふらふらしながらデスクに戻ってくる。目が虚ろでさすがにと思い、休むよう言おうとした前に自己申告。
「ごめん、仮眠室行ってくる。一時間して戻らなかったら起こしてほしい」
「お、おう」
重たそうな身体を引き摺る背中を見送った。
しばらくして仮眠室に様子を見に行けば、薄暗い防音性の高いそこで清潔なベッドで寝息を立てていた。あからさまつらそうに眉間にはシワが寄っているし、汗をかいた顔が赤い。
自販機でスポーツドリンクでも買って氷枕か冷えピタを、と脳内で世話を焼こうとするが、枕元にはすでに半分飲まれたスポーツドリンク。額にはぴっちりきれいに貼られた冷えピタ。ベッドの足許に置かれたバッグには替えのスーツが。
できることがなさ過ぎる。
せめて、と壁掛けの時計を外す。備品の予算をケチるウチには電波時計などない。だがそれがかえって良い方へ向くときもある。
****
ふと目が醒める。
頭が随分と重たいが、ぼーっとする感覚は薄らいで手に伝わる首の熱も少し下がったみたいだ。眠る前に飲んだ解熱剤が効いたのだろう。
「(……いま何時)」
スーッと視線が慣れたように壁を伝って時計を見た。文字盤にフォーカスされ認識した脳が違和感を発する。
「あれ」
眠る前に時計を見てからまだ二〇分も経っていない。おかしいと思いながら今度はスマホを手に取った。持ち上げられて感知した画面がパッと数字を映して違和感の正体のヒントを見せた。
むずむずとした慣れない気持ちに不甲斐なさ。今後の反省点を見出して頭に刻んだ。
カラカラに乾いた喉にスポーツドリンクを流してから、そそくさとベッドに横になった。
不思議と、不調時にひとりで横になっているときに感じる心細さがなく、すんなりと眠りに落ちることができる。
四〇分後のことを頭でシミュレーションしながらもぞりと丸まって。
#目が覚めると