「美しい」
読んでいた小説の途中でふと、目に飛び込んできたこの言葉。
思い返せば、「美しい」なんて言葉を僕はほとんど使ってこなかった。
例えば太陽の光を受け、キラキラと輝く海面を見たとする。
無数の星空が煌めく夜空を眺めたとする。
そんな瞬間に立ち会う度に、感嘆する僕の口から溢れたのは「美しい」ではなく「綺麗」だった。
綺麗は美しいと引き換え、これまでに何度も使ってきた。
しかし、「美しい」。何処か大袈裟で小っ恥ずかしく、「綺麗」よりもさらに上を行く言葉。
僕は筆箱から蛍光ペンを取り出して「美しい」に線をひいた。
途端に「美しい」はどの言葉よりも存在感、異彩を放つ。このページを開いて、一番に目に飛び込んでくるのはきっと「美しい」だ。ほかの字に目を移そうとしても、「美しい」が僕を捕らえて離さないだろう。
…まるで、彼女みたいだ。そう思った途端に僕の背後から高く澄んだ声がした。
「図書室の本に落書きしてるの?怒られちゃうよ」
振り向くと、分厚い本を抱えた彼女が可笑そうな笑みを浮かべて立っていた。
「ああ、…別にバレないだろ、こんな本僕以外に誰が開くんだよ」
僕が本を閉じ、蛍光ペンの先でコツコツと古めかしい表紙を叩いて見せた。
「私が君の次に読むかも知れないじゃない」
彼女は控えめに笑い声を立てながら、僕の向かい側の席に腰を下ろし、持っていた本を開いた。そうなると彼女はすぐに本の世界へと入り込み、当分帰ってこない。
僕は真正面から、本を読んでいる彼女を見つめた。
窓から入り込んだ風が彼女の髪をさらさらと揺らしている。白く華奢な手がページを捲っていく。
ただそれだけの事なのに、僕は目が離せなくなる。
…こういうのを「美しい」というのだろうか。
「この世界ってさ、コーヒーと似てるよね」
彼女はカップの中に入ったコーヒーをぐるぐるとスプーンでかき混ぜながらそう言った。
急に何を言い出すのやら。
「この世界ってさ、凄く苦いのよ。そのまま受け止めると火傷することだってあるしさ。砂糖やミルクみたいな甘くて嬉しいことで誤魔化していかないとどうにも飲み込めないでしょ。」
…いや、ブラックコーヒーを好んで飲む人も大勢いるだろ。
思わず口を出しそうになってしまってぐっと唇を噛み締めた。
言わんとしていることは分からない、でもない。
「けどね、美味しいのよ。そのままではとても頂けないけど、砂糖やミルクをいい塩梅で入れるととっても美味しいの。苦さも美味しさに変わるみたいな。
だからね、私この世界もコーヒーも好きなの」
そう言いながら彼女はまた角砂糖のポットへと手を伸ばした。僕はその手をピシャリと叩く。
「何個目だよ」
「5個目よ。甘ければ甘いほど私は嬉しいの」
一番知りたいことに限って「どうして」なんて誰にも聞けないし、多分聞いたとしても誰一人として、私が納得し、満足するような答えを返してはくれないだろう。
夢をみている。
君が私の頭を撫でてくれている夢。君はまるで宝物に触れるかのように優しく髪をすく。
夢だということはすぐに分かった。君がまるで恋人にするように優しく触れてくれるなんてありえないから。
…いや、今の関係でも十分満足している。馬鹿なことを言って笑ってバシッと叩いたり叩かれたり。
それで充分、なのだけれど。
こんな風に優しく頭を撫でられるなんて、困ってしまう。この夢がいつまでも続いて欲しいと願ってしまう。
そのうち君は私の頭を撫でる手を止め、目を細め.柔らかく笑って
「好き」
と囁く。
なんて、甘ったるい夢なんだろう。
はやく、はやく夢から覚めてしまおう。これ以上、こんな夢が続くなら、現実に戻されたとき、きっとしばらくは引きずってしまう。
私は思い切り頬をつねった。
…気づいたら教室にいた。
そうか、机に突っ伏して寝てしまっていたのか。
私が伸びをするとぱさりと肩から何かが落ちた。
…男子の、ブレザー?…誰の?
不思議に思いながらブレザーの内側を確認すると、そこには君の、苗字が刺繍されていた。
それを見た瞬間に、あの優しく触れる大きな手だとか、「好き」と囁くちょっとだけ甘かった声だとかを思い出した。やけに、リアルな。
…まさか、まさかね。
…でも、でももしかしたら。
夢見たっていいのだろうか。すこしだけ期待してもいいのだろうか。
今夜も月は綺麗だ。
煙草を片手にぼうっと月を眺めていると、冷たい夜風が頬を刺した。それから風は、私の髪を乱雑にもちあげ、絡ませる。
もう、冷たくなった頬を包んでくれる、乱れた髪を丹念に直し、撫でつけてくれる温かな手は無くなったというのに。
ああ、夜が酷く憂鬱だ。
ベランダで煙草を吹かしていると、あの人のことを思い出す。忘れたいから、煙草に頼っているというのに、これでは本末転倒だ。
思わず苦笑して、部屋の中にだらりと身を投げた。
あの人が居なくなった今、ベランダで煙草を吸う必要なんてない。あの人がこの部屋に足を踏み入れることなんて、この先絶対に無いのだから。部屋が煙草の匂いで満たされようが構わない。
「寒いでしょ、ごめんね」
と申し訳なさそうに、ブランケットを持ってきてくれ、肩に掛けてくれたあの人はもう居ない。
煙草が苦手なはずなのに、隣に来てくれ、一緒に月を眺めたあの人はもう居ない。
時折こちらを愛おしげに見つめ、微笑むあの人は、
もう……。
視界がぼやけ、ゆっくりと涙が頬を伝った。
綺麗な月を眺めるのも、あの人が隣に居てくれないと、まったく意味がなかった。
ただ、寒さだけが身に染みただけだった。