──じゃあ、また今度。
手元のコーヒーカップを回しながら、研究所の仕事がどれだけ大変で楽しいかを語っていた友人が、ふと口を閉じる。淡緑の瞳が腕時計に落ちて、つられて自分も手元に目をやった。そろそろ帰らなければいけない時間だ。
外を見れば、陽が橙色に変わりかけている。
「どうする? もうちょっと居る?」
すっかり常連になった喫茶店だから、多少長くいても悪い顔はされない。そう考えての言葉だろう。
「いや、……明日は早いから帰りたい」
「そっか」
友人は名残惜しそうな様子もなく頷いた。すっかり空になったケーキ皿を置いて、同時に席を立つ。
(さよならは言わないで)
加筆します
──朝に眠る。
ゆるゆると眠りから醒めていく。あたたかい寝巻きでも、やはり起きたばかりは肌寒い。少しだけ身を縮めた。
心地よい毛布を振り切って体を起こし、朝の光に目を慣らそうと何度か瞬きをする。カーテンの隙間から差し込んだ朝日が埃を光らせていた。毛布を退けた拍子に舞ったらしい。それとも、そろそろ掃除どきだろうか。
気まぐれに、隣で眠る焦茶色の髪に手を滑らせてみる。自分の髪とは似ても似つかない柔らかさだ。以前に、雨の日は手入れが大変だとぼやいていたのが新鮮だった。両親も姉も自分も、揃って癖のない直毛だから。
友人からは羨ましいと言われるものの、私からすれば当の友人の髪が少しばかり憧れだったりする。多少癖がついていた方が、可愛げがあるような気がして。
それにしてもぐっすりと眠っている。そういえば、昨日は夜勤だったろうか。ならば帰ってきたのはつい数時間前で、今日は昼近くまで寝たままだろう。
……この場合、おはようとおやすみとどちらが正しいのだろう。もう朝だから、挨拶としては「おはよう」のような気がする。ただ相手が眠りについてからさほど時間は経っていない。それなら、ゆっくりと休めるように「おやすみ」でも良いのか。
まあ、こんなことを長々と考えている時点で寝ぼけているのかもしれないが。
決着の付かない脳内での論戦を互いに不戦勝として、静かな寝息を立てる相手の額に唇を落とす。
──おはよう、それからおやすみ。良い夢と良い目覚めを。
崩れた布団を肩まで引き上げてやって、そっとベッドを降りた。
今日は久しぶりに、二人揃っての休日だ。
(光と闇の狭間で)
これで八十作品目です。いつも読んでいただきありがとうございます。
──近すぎても心地良いことを知った。
幼い頃から、他人とのちょうどいい距離を見つけるのが得意だった。あの人は子供が苦手だから近づきすぎないようにする、あの子は兄弟がたくさんいるから多少近くても大丈夫、あの先生はたぶん俺が苦手。
少し成長してからは、周囲のやつらに少しばかり陰口を叩かれた。誰にでも壁を作っている、なんて。
だってそれがお互いのためだろう? 近づきすぎなければ傷つけあうこともない。誰だって被害者にも加害者にもなりたくないはずで、その方法が俺にとっては距離を保つことだった。
変わり始めたのは学園の高等部に入学した頃だ。壁なんて軽々飛び越えてくる友人と、壁の存在を知ってなお話しかけてくれる友人。そして、壁を作りたく無いと思うような相手にも出会ってしまったから。
たぶん、もう無闇に人との距離を取るようなことはないだろう。少なくとも、俺との距離を詰めたいと思ってくれる人間に関しては。
さて、俺の生来の性質すら変えてしまった同居人は、いつ起きるのだろうか。いくら距離がなくなったと言っても無理がないか、膝枕は。絶対寝心地悪いのに爆睡してるし。よっぽど疲れてんのかな。
……まあいいか、これはこれで悪くない。
(距離)
──泣かないでというのなら。
自分の嗚咽が酷く不快だった。どれだけ呑み込もうとしても噛み殺そうとしても口の端からこぼれてやまなかった。ぼやけた視界では愛しい橙色も柔らかな焦茶色も見えなくて、それがさらに喉の奥から悲しみをあふれさせていた。
「もう泣くなって。なあ、……」
まともな返事もできやしない。肩や頬や背中に触れたあたたかさに安堵するとまた嗚咽が大きくなって、止めようとして不格好に肩が跳ねる。
「お前の眼は綺麗な水色なんだから、そのうち涙に混じって溶けちまいそうだ」
そんなわけがあるか。バカを言うなと叩こうとして、寸前で相手がひどい怪我をしていることを思い出す。
加筆します
──冬のようなひと。
隣を歩く同居人の吐く息が白い。優しく息を吐き出して見ると、同じように白くなった。
どうやら、いつの間にか冬がやってきたらしい。
この馴染みの散歩道が雪景色に変わる日も近そうだ。石畳に雪が積もると、翌日凍って滑りやすくなるから、散歩には困るけど。
ああでも、同居人には雪がよく似合う。隣をちらりと見て、灰色のマフラーに口もとをうずめている姿が雪の舞う中を歩く姿を想像する。……やっぱり寒がりだから出歩かないかもな。
「すっかり冬だなあ」
並木も早々に葉を落として次の春へと力を蓄えている。時折落ちている枯れ葉が、踏むたびに乾いた音を立てた。
「……少し前まで夏のような気温だったというのに」
「ははっ、寒かったり暑かったり忙しないもんな」
「体調を崩しやすくなるから嫌なものだ」
朝夕の気温差が十五度を超える日も多い。季節の変わり目に風邪をひきやすい人からすれば、恨めしい季節に違いない。
「……冬は嫌いではないが」
「ん?」
「氷魔法は有利になる」
なるはど、魔法の話か。確かに冬に氷魔法使いと戦うのはごめんだ。
「俺も冬は好きだな」
「寒がりではなかったか」
「ん、なんかお前っぽい」
「季節と人間を並べるのはどうなんだ」
「えー、灰色とか水色だし、似てねえ? あと、冷たいけど綺麗で優しいとこかな」
「……そうか」
小さな声だった。
冬の曇天の色をしたマフラーに隠れた頬が色づいていることを、たぶん俺だけが知っている。
(冬のはじまり)