「今日の心模様」
「はぁ……最悪だ」
ガタゴトと規則的な音を立てて走る電車の中で、思わず漏れてしまった言葉に集まる視線はない
なにせ始発、そりゃあもうめっちゃ早起きして乗っているのだから、誰一人として乗客が居なくてもおかしい事はないのだ
そんな早くからどこに行くかって?
仕事に決まっているじゃないか……最悪だと言いたくなる気持ちも少しはわかって欲しい
なんでも、地方の現場に行かなければいけないとかなんとか。とにかく「来い!」と言われた時間が、どう頑張っても始発でギリくらい
「こんなに早いなら前泊くらいさせろやぁー」
誰も居ないのを良いことに、ぼやきが止まらない
どんより曇った心模様に比べて、現実の空の澄み渡り様には寝不足の私にとっては眩しいだけのものだった
「夢見る心」
いつから失ってしまったのだろう?
幼心に夢見た将来への願望
青春の最中に思い描いた未来への希望
新たな世界へと踏み出す一歩への期待
全て、全て。今の私の中にはあるとは思えない
安らぎを削って、身を削って、感情を削って。削り落としてなんとか得る安定は、とてもあの頃思い描いていたような輝きに満ちるようなものではなかった
「一体、私はどうなりたかったんだろう」
疲れ果てた人が詰まった箱の中で、まとまらない思考がゆっくり歩き出す
今更やりたい事なんてあるだろうか?
その為に、今を変える勇気があるだろうか?
今の全てを捨て去る覚悟が、私にあるのだろうか?
ギチギチと歪な音を立てて、精神が軋む感覚が日に日に増している気がする
呼吸の苦しさと肩の重さに、深いため息を吐く
「学生に戻りたいって気持ちは、こういう時に想うんだろうなぁ」
「1つだけ」
なぁ頼まれてくれないか?
「何をさ?」
今まで散々っぱらコキ使って来たけど、最後に1つだけ。な?頼むよ
「いや、何言われようがこっちは断れねぇからなんでもやるけど」
……それが、お前の手を汚す事だとしてもか?
「おっと、風向きが変わったな?急にどうしたんだよ。今までこっちにギャグみたいな事しかやらせなかった、お前らしくもない」
実はな……俺、好きなやつが出来たんだ
「……は?ただの惚気なら殴るぞ」
いやいや、違うんだって。落ち着けよ
「至って落ち着いとるわ。んで?続きは?」
おう、それでな……その好きなやつが、誰かに脅されてるらしいんだよ
「ふむ?」
そいつの希望を叶えないと、存在意義がなくなるだとか、そんなことをよく言っててな……そこで!だ!
「その脅してるやつを殺せって話?」
そうそう、話がはやいねぇ
「……一応聞くが」
ん?なに?
「その好きなやつってのは、まさか【こっち】のやつの事か?」
……そうだけど
「だとしたら、こっちには出来ないな。物理的にその願いは叶えられん」
あ〜お前でもやっぱ無理かぁぁ〜
「無理に決まってるだろ、こっちは人間様に対して誰のどんな願いであろうとも、危害を加えられないようになってるんだからな」
じゃあ……お前が俺だけのものになるって言うのは?
「………………」
俺の全部、輪廻の先までお前にくれてやるから。俺だけの願いを叶える悪魔になってくれよ
「……終身雇用のお誘いか?」
そう、他の人間の願いなんか叶えないでくれよ
いつも他のやつの話を聞くたびに、嫉妬に狂いそうだったんだ
「じゃあ、こっちからも1つだけ。いいか?」
なんだ?くれぐれも断ってくれるなよ……しばらくしょぼくれる自信しかない
「その話、もう100回は聞いてるよばーか」
「大切なもの」
“ありがとう、僕にこの感情を教えてくれて”
“そしてさようなら。この感情を教えてくれたあなたにだけは……同じ苦しみを味わって欲しくないから”
……いつだって、悪夢のように繰り返されるこの光景は、私の思考を埋め尽くさんとばかりに深く、重く、冷たくて……
薄暗い部屋、月明かりに照らされて──鋭い光を反射する刃は、確かに彼女の喉元に触れる寸前だった
「なにっ……やって!?」
その光景を目の当たりにした俺は、彼女の手からナイフを叩き落とそうとして……
「あれ、キミが今日私の部屋に来る用事……あったっけ?」
まるで何事も無いかのように、俺に問いかけてくる
「アンタが呼んだんでしょ?今日の報告に来いって。あー……えぇと……手元のソレ、誰が見ても勘違いしそうになるような事、しないでもらえます?」
「そう、だったっけ……?ん、手元?……あ」
俺に指摘されて気づいたのか、握っていたナイフをケースへと仕舞う。
「ごめんごめん、紛らわしかったね。ちょっと思い出す事があってさ」
「ナイフを見て??」
ふふっ、と彼女は笑うと愛おしそうにナイフを撫でた
「昔にね、戦友がくれたんだ。もし私の大切なものが擦り切れそうになったら、私が私じゃなくなりそうになったらこれで心の臓を突き刺せってね」
「なんて物騒な……」
「でもこれは私の大切なものだよ。たとえ間違えても、ギリギリ取り返しがつくかもしれないから……」
そう言う彼女の瞳は、暗くて冷え切っていた
なんだかそのまま、彼女がいなくなってしまいそうで
「はぁ……そうさせないために、俺がいるって事……忘れないでよ?」
ナイフを撫でる彼女の手に自分の手を重ねた
そんな自分の行動に驚いた顔の彼女は
「……キミってそんなロマンチックな事、素面で言えるキャラだったっけ?」
いつも通りの彼女だった
「絆」
これほどまでに、苦しいと感じたのはいつぶりだろうか?
“絆”というものは非常に厄介で、癒えたと思った古傷の痛みを、ふとした時に思い起こさせてしまうのだ。
あの子が居なくなって、もう何年も経つというのに……
あの子と見た景色、あの子と食べたお店の料理、あの子と交わした言葉、あの子の香り……一度だって忘れたことはない。
そんな暖かいはずの記憶を思い出すたびに、別れの時の苦しみが込み上げてきて、心の底から痛いのだ。