街の明かり
コロナ禍では地方移住や田舎暮らしなどがもてはやされているようだったが、密集した住宅街で生まれ育った身でありながらいまだに利便性に勝るものが見出せていない。父は学校に通うために山を登り下りしていたような田舎の出身であるが、やはり自然に身を置く時間が必要らしい。頻度は減っているものの定期的に山へ赴く。
そのように生まれ育った環境というものにより、ノスタルジーもまた感じる景色は別なのだろうと思う。先日、用事があって遠出をした際、数日山と海ばかりを眺めて過ごしてから帰宅するバスの中で、少しずつ増えてくる街の明かりに安堵したものだった。あれは、それに似たものではなかっただろうか。
2024.7.9
日差し
新しい日傘を手に入れてから、夏のお出掛けも以前よりは楽しくなっていたのだが、それはそれ、気温も湿気も年々身体に堪える。温暖化対策にもっと協力しておけばよかったのかもしれないとすら考える。
しかしそんな不快感が優位な季節も、一年で最も彩度の高い景色を屋内から覗いてしまうと、不思議と心が踊って、後悔するのはわかっていても外出したくなる。気づけば予定を頭の中で整理して、週間の天気アプリをチェックする。この日はどこへ行こうか?そんなことを考えるのはいくつになってもわくわくしてしまうのだ。
2024.7.3
夏
まだ乾いていないアスファルトが強い陽射しを受けて黒を艶めかせていた。夜中の急な雨の記憶をまるごと奪い去るかのような天候だ。頭上から降り注ぐ太陽光は昨日までの弱々しかったそれと全く違う強さで、髪の毛を通り越して皮膚を焼く。
一晩で季節が変わっていたのだ。夏がきてしまった。
1年後
社会に出て随分経つので、10年、20年後のことが来年程度の感覚となってしまった。20代の頃はまだ計画性をもって生きねばという意識があったが、いつの間にかまず生きることが最優先事項となった。仕事にせよプライベートにせよ、予想外のアクシデントが日常となり、生活をするために計画は塗り替えられる。そのうちに計画というものに諦めをつけることが習慣づいてしまった。
来年というものが近未来程先のことのように感じていた学生の頃は、社会を知らず人生を知らずしあわせな時間だったのだなぁと実感せずにいられない。
2024.6.25
子供の頃は
一番最初の記憶は、夕暮れ時にアスファルトに並んだふたつの影だ。背中に優しい時間の経過を感じながら、手を繋いで覚えたての童謡をふたりで口ずさんでいた。その足下から延びた影の大きさは殆ど変わらない大きさだったっけ。
「あれ、何か怒ってる?」
今の影の長さの差と記憶のそれを比べていたら、頭ひとつ分上から幼馴染の声が振ってきた。どうやら表情に出ていたらしい。
「べつに」
あの頃より随分大きくなったその手を取ると、嫌がらせの如くこちらへ引っ張った。わ、と小さく声を上げるのを見てしてやったり、と思うのだった。
2024.6.24