声が枯れるまで
「声がなくなるまで」という歌があった。いつごろだっけ。たぶんあたしが若い頃。あたしもう若くないの? うーん。わかんないけど大人になった気しない。なんの話してたっけ。そう、そう、「声がなくなるまで」よ。ジュンスカよ、あたしあれすっごい好きだったのよ。声が枯れるまでじゃなくて、声がなくなるまで。声が枯れるくらいなによ。枯れたってまだ声があるなら歌いなさい。…そう、そう、あたしはそう思っていたの。自分がほんとに声をなくすなんて思ってもみなかった。あたし癌で声帯をとってしまったの。それでもあたしは声を出す訓練をした。ゲップの要領で声を出すの。ひどい声よ。カエルみたいよ。でもこれはあたしの声。いまあたしに出せる最高の声。あたしの声はまだなくならない。
秋晴れ
「こういう透明すぎる秋の空を、昔は異常透明って呼んだんだ。今は言わない。異常という言葉のイメージが悪くなったのかもな。異常ってなんだろうな」と、先生は言った。
先生はもういない。異常能力者狩りに捕まりそうになったぼくたちをかばって死んだ。
気持ちのよい秋晴れの日だから外に出て、でも見つかったらヤバいから、ぼくはぼくの前後の光を交換する。前後から見た場合ぼくは光学迷彩で見えにくくなるってわけ。ぼくの能力は光を任意に交換することだけど、完璧に透明になれるわけじゃない。
先生、ぼくたちは異常なんだろうか。100メートルを10秒で走ったら賞賛されるのに、5秒で走ったら異常者扱いだ。異常ってなんなんだろうか。
秋の異常透明の空は美しいが何も答えてくれない。
忘れたくても忘れられない
なんてつまらないタイトルなんだ。今日のお題は「忘れたくても忘れられない」、これは書く気にならない。頭の中で昭和すぎる「別れても好きな人」とか鳴り響く。くだらなくて泣きそうだ。
本当に忘れたくても忘れられないのは、好きな人でも好きな食べ物でも好きな風景でもなくて、たまらなく嫌なこと、二度とあってほしくないひどいこと。具体的に書く勇気を私は持たない。
象徴的になら書いてみてもいい。暗くて狭い部屋に満ち満ちる人の一部、たとえば腕や脚や生首、その生臭くよどむ空気の中に無数の牙が生えて少しずつ私を削ってゆく。
忘れたくても忘れられない? は! 忘れられないのが酷い風景でないのならあなたは幸いである。神の国はあなたのものだ。
やわらかな光
光に硬いも柔らかいもない。光は単純に光であって、通り過ぎるときも、照らすときも、ただ光るだけだ。
そう思っていたので、この現象には絶句するしかなかった。光であるからにはなによりも最速で、まっすぐに進む。でも時折曲がる。光を曲げることができる物質の前では光も曲がる。
この茶色い塊はかつて聖女と呼ばれた女性の遺骸である。この物体を通すと、単なる蝋燭の光も聖なる光となり人を癒す。生前の聖女はこの光を使いこなしこの光を「やわらかな光」と呼んだ。
そこまではいい。問題はこのやわらかな光が人を物理的な意味でグズグズに溶かす…より詳しく言えば細胞膜を溶かし細胞を融合する。そして癒やされた生物は細胞を融合した結果もれなく健康的なスライムと化す。
たとえば肘から先を失った人物の肘にこの光を当てると肘から先が再生される。しかしその肘から先はスライムからなり、細胞核を一つしか持たない。人の細胞を再生したわけではないのだ。それでもそのスライム化した腕は腕を失った人にとって有用なのはまちがいない。
魔術省の測定機もこの光にあてられると柔らかいわけのわからないスライムに変じる。世界時計の標準である水晶さえもこの光のもとには変質する。私はこの研究結果を公表する勇気を持たない。人類にとって有用なのはまちがいないのだが。
鋭い眼差し
ワイシャツのボタンを上三個外してだらけた姿勢で、探偵は弛緩した目つきでこちらを見た。こいつ一応は有能な探偵で「Trouble is my Business」を標榜してるはずで、さらにはこの世の外までも仕事場にしてる心霊探偵だと聞いた。本当だろうか。私のこの問題を解決してくれるならいくら怠惰に見えても構わない。
「探偵さん? とりあえず私のまわりにある窓をのぞいて? それで問題があるとわからないなら契約はしないわ」
探偵は眉をひそめてあたりを見渡した。
「ひでえな。誰からの呪いか見当はつくのか?」
「つかないからあなたに相談してるのよ」
探偵はふっと笑って私を見つめた。私の魂胆を見透かすような。私も笑い返した。私は現時点では被害者なのだもの。私は今のところ何もしていない。ただ鷲司家の下女をひとり解雇しただけよ。あの下女は黒い鰓とつながっていたからうちに置いておくわけにはいかなかった。
この自称心霊探偵はどこまで知っているのかわからないけど私の盾にはなれるのかしら。それともそういうのは他に依頼すべきかしら。私もよくわからない。
「黒い鰓って聞いたことがある?」
微笑みを崩さぬ努力を続けたまま尋ねると、探偵は一瞬ぴくりとしたが、何食わぬ顔で、
「黒い鰓。それは厄介な案件だなあ。高くつくぜ」
と、へらへら笑った。軽すぎて腹が立つような剽軽な顔に、鋭い眼差しがとってつけたように張り付いていた。