たそがれ
薄い皮一枚へだてた向こう側の薄明界は、たそがれのときにもっともこの世界と近くなるのだと先生は言った。まるで薄明界に去っていったかのごとく先生は行方不明になってしまったのだけど。
たそがれどきがくるたびに僕は街を歩き、幻の瓦斯灯を探す。そこが入口かもしれないと先生が言ったからだ。…見慣れた路地に見慣れぬ袋小路があったらそこ…と先生は言ったっけ、思い出せないがこれは案件だ。
この街生まれで知らぬ路地などないはずの僕の前に現れた知らぬ袋小路の奥に小さな石造りの階段がある。この先に、先生はいるのだろうか。
「夜明け前」の続編です。
「夜明け前」
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きっと明日も
夕空を見上げる。もうすぐ日が落ちて、丘の下に見えるどの家も夕食の時間を迎えるのだろう。ぼくは今日のことを思い出す。祝日だからゆっくり寝ようと思ってたのににーちゃんに起こされて釣りに行った。いつもの七曲りの池で女の人に出会った。長い綺麗な黒髪の女の人だ。
「あらまた会ったわね。75回目くらいかしら?」
女の人が言うにはぼくたちは何度も何度も同じ一日を繰り返しているらしい。もちろんそんなの嘘だろう。にーちゃんは女の人を睨みつけ「それをこいつに言うな、こいつを絶望させたくない」と言い出した。ぼくは女の人と言い合ってるにーちゃんをほっといて森に出かけて一日遊んでた。夕方の空の雲は毎日昨日とは違う。きっと明日も違う。
にーちゃんはなんであの女の人とあんなに口論したのだろうか。ぼくは明日もあの女の人に出会うのだろうか。そのときぼくはいまのこの思いを覚えているのだろうか。
静寂に包まれた部屋
この部屋は静寂に包まれている。私をこの部屋に閉じ込めた男がそう言った。最初は単なる防音室かと思ったが違った。間違いなくこの部屋は静寂に包まれている。たとえばうるさく足音を立ててみよう。その音はキャンセルされたように聞こえない。手を叩く。その音も聞こえない。叫んでみる。全く音はない。
このマジックの種はおそらく音を逆の音でかき消している。私の耳が聞こえなくなったという可能性は否定しきれないが、私は手首を耳に押し付けて私の血流を聞き、私の耳はまだ健全だと自信を持てた。この部屋の音がすべてかき消されているわけではない。
この部屋の明かりは明る過ぎずむしろほんのりと暗い。空調はほとんど感じられないが暑くも寒くもない。非常に快適で、ソファーにはクッションも毛布もあり、うかうかしてると眠りそうだ。
だがここで眠ったら私をこの部屋に閉じ込めた男の思うままになる。私はあの男の思うままになどなりたくはない。私は絶対にあの男の女にはならない。あいつの支配下にはおかれたくない。私は完璧な無音が支配する部屋でごく静かに自分の鼓動を確かめ続ける。私は眠らず狂わず、あの男がやってきたとき、その優しく見える手を拒みたいのだ。
※※※※
あえて書いておきます。音を音でキャンセルする話の元ネタはアーサー・C・クラークの白鹿亭奇譚「みなさんお静かに!」です。あれもまあ女性に振られた男の話なんですが。
別れ際に
別れ際に何をいうかだあ? クソつまらんことを聞くな馬鹿野郎。「じゃあな」一択に決まってんだろ。あばよだのさらばだのさよならだの嘘くせえの、昭和の歌謡曲かよ。「じゃあな」がいいよ。おれがガキのころ、酒や博打を教えてくれたクソな叔父さんがいてな、「じゃあな」って言って消えたんだ。それからおれはずっと「じゃあな」を別れ際にいうことにしてる。「じゃあな」は汎用性があっていい。老若男女誰にでも使える。おまえは他の言葉を使うっていうのか? じゃあ何なんだよ。「チャオ?」 イタリア語のCiaoかよ、それはまあ確かに否定できんわ。面白かったよ、また酒を飲もうぜ。じゃあな。チャオ。
通り雨
午後休憩でお茶を飲んでいたら、緊急速報で通り雨の予報が送られてきた。またかと思いながら重い腰を上げる。通り雨がくる以上安穏とお茶を飲んでるわけにはいかない。作業場に行くと、ぶーぶー文句を言いながらも全員集まっていた。重要性も緊急性も全員が承知しているのだ。基地の長として私は命じる。
「総員武器を持って持ち場につけ」
硫酸の雨を撒き散らしながら通り雨がやってくる。やつら、雲状超硫黄分子生物通称通り雨はこの惑星の先住生物だが、人類のこの基地を破壊するやっかいな連中だ。意思疎通はできた試しがない。ふわふわした綿雲のような外見はある意味可愛げがあるが、やつらがいる限り基地を安全に保つことはできない。この基地は当初攻撃されることを想定していなかったため攻撃手段はすべて後付けだ。やつらは一地方の気象現象だと思われていた。意志を持って攻撃するとは予測されていなかったのだ。
通り雨のあと溶けた穴だらけになった基地の外装を補修する。できる限りガラスで覆われている基地だがすべてをガラスで覆い切っているわけではないので通り雨のあとはいつもこんなものだ。今回もひどい通り雨だった。死んだ通り雨たちがぐずぐずと地表を溶かしている。地球のような風情ある通り雨はこの惑星に存在しない。水だけを落として通り過ぎる地球の雨が懐かしい。