啓介が実家に足を運んだのは偶々だった。
電車が止まり(というのも、一本前のが接触事故を起こしたらしい)、次の駅で降りて歩くことにしたのだ。
それが何の因果か、実家の最寄り駅だったため、何の気なしに歩いてきたというわけである。
久々に見る実家は、記憶の中よりも小さく、寂れていた。
数ヶ月前に母親が死んで、父1人が暮らすこの家は、陰気さを漂わせているような気がした。
インターホンを鳴らそうと、手を伸ばした。
一瞬、やはり帰ろうか。
という思いが首をもたげた。
用事などないし、来るという約束もしていないからだ。
けれど、そんな啓介の考えとは裏腹に、伸ばした手は迷いなくインターホンを押した。
(まさか、この家のインターホンを押す日が来るとは)
少々自嘲気味に笑う。
なにせ、子供の頃は鍵を使っていたし、独り身になってからは実家に帰る気などさらさらなかったからだ。
「どちら様ですか?」
最後に聞いた時よりも幾分か老けた父の声が聞こえる。年老いても、父の声は父のままだった。
「親父。俺だよ。啓介だ。」
そう告げると、通話が切られ、直後にパタパタと足音が鳴る。
開いたドア越しに顔を覗かせた父は、記憶の中で何ら変わりなかった。
だが、家に上がると、変化がありありと見える。
前々から酒は飲んでいたが、その量が増え、そこらから酒の臭いがする。
更には、シンクに大量の洗い物が溜まっている。近くのゴミ袋を見るに、最近はインスタント食品ばかりを食べているようだった。
「こんなんばっか食ってたら体痛めんぞ。」
仮にも父だ。注意してやるが、早く死にたいのだろうか。父は啓介の助言には応えなかった。
このままでは啓介自身の居心地が悪いので、仕方なしに家を片付ける。
小一時間もすれば、見覚えのある景色へと戻ってきた。
「ああ。母さんの仏壇、ここにあったのな。」
思わず啓介が漏らすと、父が顔を上げた。
「…そうだな。あいつにはずっと一緒にいてほしかったから」
父の発言を聞いた瞬間、ふと啓介の中でパズルのピースが嵌るような心地がした。
啓介にとって父は、父ではなかった。
基本的には仕事で家を空けており、時たま早く帰って来たかと思えばただの酔っ払いに成り下がっている。
幼い啓介にとっては、何の愛情も感じられなかった。
それが今、こんなにも寂しそうにしている。
大人になって漸く、父の父らしい一面を見た気がした。
きっと、これは、小さな愛だ。
不器用で、直向きな、父の。
「俺、そろそろ帰るわ。」
「もう帰るのか?」
啓介の言葉に父は名残惜しそうに聞く。
「あぁ。俺にもやることがあるしな。」
それに、と啓介は続ける。
「親父の様子も確認できたから。」
すっかり日も暮れた道を歩く。きっと、遅延もそろそろ終わっているだろう。
来たときは若干憂鬱さを感じていたというのに。
(こんなに喜んでくれるのなら来てよかったな。)
啓介はそう思うと同時に、自分も、父と母のように、小さな愛を育みたいとも思うのだった。
苞葉は1人、必死に叫んでいた。
「待ってっ!行かないで!」
手を伸ばすその先は虚空。何も掴めやしない。
だが、確かに苞葉には存在しない"何か"が見えていたのだ。
何故苞葉がここに至ったのか。
遡ること凡そ一週間。
大好きだった母親と死別し、下を向いて歩いていた苞葉に声をかけてきた怪しげな人物。
普段の苞葉ならば、絶対に無視するというのに、何の気の迷いか答えてしまった。
其処からは転落の一途。
知らずに手を出した麻薬に苛まれ、手に入れられずに際どいことをしては金を稼いで、その金を麻薬に使う。
負のループをぐるぐると回っていた。
だが、苞葉は麻薬など止められなかった。それは、麻薬の本質的なものもあるけれどーなによりも、死んだ母親に幻覚でも会えるからだった。
寂しげに去ろうとする母親を追いかけ、足をもつらせながら必死に這いつくばる。
瞬間、崖から転落した。
その事に気づかず、手を伸ばした苞葉は、確かに母親に触れれた。
強い衝撃が苞葉を襲う。それでも苞葉は幸せそうだった。
こうしてまた何処か、誰にも認知されない場所で人が死んだ。
空はこんなにも澄んでいるのに…。
「ねぇママ。ママのこどもころのゆめってなにー?」
6歳の娘にある日突然聞かれたのはそれだった。
もうそんなことを聞く年になったのか、という感慨深さと、一体どんな回答をしたらいいのかで、迷ってしまった。
私には子供の頃の夢なんてなかったような気がするから。
概して子供の頃というのは高校生くらいまでらしい。私はその時期、荒んで、生きる理由すら見失っていた。
突然の両親の事故死。
学校内でのいじめ。
勉強にもついていけないし、今でいっぱいいっぱいで未来のことなど考えもできなかった。
そんな私に声をかけて掬い上げてくれたのが夫だ。
学校一優秀だった(らしい)彼は、なぜか親身に勉強を教えてくれた。
お陰で学校にいかずして勉強はできるようになった。
当然、その年は出席日数が足りず留年になったけれど、無事大学にも受かれた。
明るく前向きになれた時の私の夢なんてーーそんなの、彼の妻になることに決まってるじゃないか。
其処まで思い当たると顔が真っ赤に火照ってしまった。
「ママー?おかおあかいよ。だいじょうぶ?」
娘が心配してくれている。嬉しいけど、なんだか恥ずかしい。
「ママは大丈夫。ちょっとお顔が赤くなっちゃっただけよー」
そうはいうものの娘は納得してくれなかったらしい。
「パパー!ママがおねつだしちゃった!」
と夫の元へ駆け込んでいく。
これは後々揶揄われそうだ。
全く。
「ママのね、子供の頃の夢はパパのお嫁さんになることよ」
唯一思いついた答えが、娘の求めていたものなのかどうか。
たとえ違っても、これが嘘偽りない自分の気持ちだ。
娘がいないのをいいことに1人呟いてみた。
「……〜〜っ」
ドアの方から声になっていないうめき声が聞こえるり
はっとそちらを見ると、顔を真っ赤にした夫と、それをきょとんと見上げる娘の姿が見えた。
まさか聞こえていたなんて!
恥ずかしさのあまり死にそうだ。
「あれ?パパ、ママ。ふたりともおねつ?」
何も知らない娘だけが、心配そうな声を出していた。
何処にもいかないで。
そう言えればどれだけ良かっただろうか。
けれど、貴方は行ってしまった。私が最後まで引き留めなかったから。
ねぇ。本当に幸せだったの。他愛ないことで笑って。馬鹿騒ぎをした、あの日々が。
わかってる。貴方は死ぬわけじゃない。ただー私の知らない異国の地へ一歩進むだけ。
それなのにどうして心がこんなに空くのだろう?
「あたし、将来は医師になるの!」
そう言って笑ってたっけな。
貴方は貴方の夢を叶えるために海外へ行く。ねぇ、そうでしょう?
私のことなど気にもとめずに。
嗚呼、こんな言い方をしてしまっては貴方のことを縛りつけるかもしれない。そうしたいわけではないのに。
でも、なんでかな?貴方の夢を応援したいのに。私に縛られて欲しくないのに。縛られて欲しいと、ここにいて欲しいと願ってしまうのは。
だけど、私が何を思ってどう過ごそうが貴方は発つ。
貴方が乗っている飛行機は空へ飛び立っていく。
こんなにも近いのに、こんなにも遠い。
「待ってる、から。何処にもいかないで待ってるから。帰ってくるときは、寄り道せずに帰ってきてね。」
最後に私が呟いた言葉は届いたのか届かなかったのか。
頬を濡らす雫を拭って、静かに手を振った。
それは、紀元前と表しても遠すぎるような時代のこと。
地球上の何処かー恐らく中国の上海辺りであったーに、摩訶不思議なものが現れた。
それは、黒紫のようなオーラで包まれた楕円で、大きさは成人男性一人分くらいであった。
しかし、その当時に人類などいるわけもなく、その禍々しい物体が何だったのか、そもそも本当に存在していたのかすら定かではない。
ここでは、本当に合ったという体で話を進めるから、それを信じられない人はここで読むのを終了することをお勧めする。
では、早速その話に入るが、その物体ーここからはボックスと呼ぶーが現れても、しばらくの間は何もなかった。
地球上に変な物体が現れただけ。本当にそれだけだったのだ。
けれど、そこから数百年、数千年と経っていくと少しずつ変わってきた。
ボックスから、何かが出てきたのだ。
それは最初、視認することのできない何かだった。
長い年月をかけて地球に流れ込んだソレは、やがて、地球で実体を持った。
その姿は、今の人間のようでいて、何処か人離れした見た目だった。
全体的に紫色で、二足歩行。オーラを纏っていて、人型。
そいつらは、一体に留まらず、どんどんどんどんと増えていった。
やがて、今でいう上海から、パリまでは全てそいつらで埋め尽くされてしまったのだ。
しかし、海を越えた先にそいつらが現れることはただの一度もなかった。
奴らは水が嫌いだったのだ。
さて、そんな奴らだが、大して悪いことはしていない。
むしろ、ここに新たな文明を作ろうとしていた。
人類がいれば、何か違ったのがしれないが、奴らが来た時代にはいなかった。
やがて、奴らは地球そのものに迫害され、ボックスに入らざるを得なかった。
奴らがボックスに入り切ると、ボックスは何もなかったかのようにその口を閉じた。
この話はここで終わりではない。
まだ本の序章ー物語の始まりーにすぎないのだ。
いつか、もう一度ボックスが現れるときが来るだろう。
それがいつかはわからないが、次は奴らは敵意を持っていることだけは確かだろう。
この物語をどう終わらせるかは貴方がた次第なのだ。