#2
ウォード様とは、あれから一月に一度は会うようになった。とはいっても、多少茶会をするだけで、大した話はしないのだけれど。
それでも、私はウォード様との時間を好ましく思っていた。
他愛ない会話をして、時折沈黙が続いて。そんな一時に心が安らいだのは初めてのことだった。
カーテンを開いた。
丁度ウォード様が馬車に乗り込む。こちらを向いたので、そっと手を振ってみる。
けれど、ウォード様は手を振り替えしてくれない。
(はしたなかったからしら?)
途端に顔が真っ赤に染まってしまう。あまりの恥ずかしさに窓から身を引こうとしたら、ウォード様はクスリと笑って手を振りかえしてくれた。
そう。笑って。
ウォード様があんなふうに笑うだなんて知らなかった。
婚約者なのに。
私はウォード様の笑顔すら知らなかったのだ。
瞼に浮かび上がるウォード様の笑顔は、とんでもなく優しくて。
顔を押さえてへなへなと座り込んでしまった。
「ルーヴェルト嬢。」
耳元でウォード様の声が聞こえる気がする。幻聴に違いないのに。
あぁ。私、ウォード様のことが好きなのかもしれない。
だってそうでなければ、私、はしたない女性になってしまう。
「お嬢様?入りますよ。」
メイドが声をかけてきたので、慌てて
#1(シリーズもの)
私には婚約者がいる。
婚約者、とは言っても会ったこともない何処かの御仁だけれど。
シェリル・ルーヴェルト。16歳。
それが私。丁度デビュタントを終えたばかりで、大人に仲間入りしたばかり。一応伯爵家だけれど、あまり裕福ではない方。それを不幸に思ったことは一度もないけれど。
そんな、私の婚約者様はジュダス・ウォードというらしい。
見るものを凍てつかせるような目に、無機質な喋り方をすることで有名な方。
公爵家の跡取りなのに、悪い噂が出回るなんて相当なのだろう。火のないところに煙は立たぬ、とも言いますし。
何にせよ、あまり期待は出来なさそうであることだけは確か。
思わず溜息をついてしまう。
この縁談だって、私が子供の頃に親同士で勝手に決められたもの。
嫌になるのも当然と言えば当然なのかもしれない。でも、何よりも重大なのは、ウォード様ともうすぐで顔合わせという事。
朝一から化粧をし、髪を結い上げて、一番のお気に入りのドレスを着た。
(どうせ、意味なんてないのに。)
だって、あの冷酷無慈悲な御方だ。私のドレス姿なんて興味もないだろう。顔合わせだって、何も起こらないだろうに。
「シェリル様。ウォード様がご到着されるようです。」
メイドに案内され、応接間に入る。緊張を抑えるため、ぎゅっと拳を握りしめる。
暫くすると控えめなノック音が聞こえた。
呼吸を整え、震える声で平静を装いながら応える。
「どうぞ。」
沈黙。少ししてから「失礼します」という声とともに、ドアが開いた。
真っ先に目に入ったのは軍服のような服。見上げれば、青みがかった黒い髪に、深海のように深い藍色の瞳。
あまりに綺麗で、我を忘れて思わずほぅ。と感嘆の域を漏らしてしまった。
いけない。相手はあのウォード様なのに。
けれど、ウォード様はウォード様で何かに驚いているようだった。
既に綺麗に澄んだ瞳を、より、青く深くする。
見れば見るほど吸い込まれそうなその瞳から、私は目をそらせなくなった。
「シェリル嬢で合っていますか?」
ウォード様の声は、思ったよりも低くて、柔らかい音だった。
「…!失礼致しました。ルーヴェルト家の長女に御座います。シェリル・ルーヴェルトと申します。」
ウォード様の声で慌てて我に返りカーテシーをする。
「私は、ジュダス・ウォードです。本日は宜しく申し上げます」
ウォード様からも自己紹介を頂き、本格的に顔合わせが始まった。
最初は何を話していいのかも分からなかったけれど、ウォード様が話を振ってくださり、思ったよりも楽しいものとなった。
私には、このウォード様が、本当に冷酷無慈悲とは思えない。
冷血だなんだのというけれど、心優しい方だと感じた。
まだ出会ったばかりで、ウォード様のことなど何も知らないけれど。
「本日はご足労頂き有難う御座いました。」
すっかり日は暮れ、顔合わせは大成功のまま幕を閉じた。
あんなにも憂鬱だったはずなのに、ウォード様が帰るとなると、何故か寂しさが湧き上がる。
そんな気持に封をして、ウォード様が乗り込んだ馬車を、夕日に溶けて消えるまで眺め続けた。
夏の気配がする。
夏は好きだ。
暑いほどの日差しと、瑞々しい緑。
この世界にある、ありとあらゆるものがこの季節を祝福しているように思えてならない。
きっと、多くの人は夏は嫌いだろう。
暑いし、虫は多いし、何より暑い。
だけど、俺にとっては暑さもまた、生を感じる瞬間だから愛おしいものでさえある。
チリンと揺れる風鈴に、キーンとするようなアイス。
豪快な音を立てて燃える花に、五月蝿いほどの蝉時雨。
青空に映える白も、さざめく白波も。
全部が全部、生きているということだ。
今、俺は生きている。
涼しげな音を聞き、障子を隔てた先の世界に想いを馳せ、こんなにも暑さを感じている。
ここは、まだ夏ではない。
肌がひりつくような暑さも、泣きたくなるほどの地獄も、まだ味わっては居ない。
夏の気配がする。
そういうのが一番正しい。
冷たい麦茶が喉を冷やす。
蒸し蒸しと湿気染みた空気を深く吸い込む。
夏が好きだ。
死にたくなるほどの熱にさらされる夏が。
夏が好きだ。
生きていると、証明してくれるこの夏が。
あの日から私にできることを探していた。
きっと、誰にでも出来て、誰にも出来ないものがあるはずだと分かったから。
あの日、私は初めて知った。
この世界がこんなにも狭くて、救いがたいほど醜くて、それでも輝きに溢れていることに。
私には何も出来ない。何も成せない。そう思わせたのはこの世界だ。けれど、何か出来る。何か成せる。そう教えてくれたのもこの世界だった。
「今」の私にできることを全力で。
そう決めたから。
きっと、見つけるのは簡単だった。ただ一言、
「君にしか出来ない」
それだけでよかったのだから。
だから、ありがとう。先生。
あの日、私に道を示してくれて。
でも先生。私、誰かの敷いたレールを進むのは嫌だ。
だから、私なりに飛び立つよ。
誰も知らない、まだ見ぬ世界へ!
「なんで!どうして!」
彼女は、ものを投げつけながらヒステリックに叫んだ。
だが、彼女にとっては残念なことにそれが僕にあたることはついぞなかった。
「仕方ないじゃないか。君とは合わないんだもの。」
「ひどい…!ひどいよ!ずっと一緒に居てくれるって言った癖に!」
ごめんな。という言葉は喉元に押し留める。言ってしまえばきっと、彼女が余計に苦しくなるだろうから。
ずっと、一緒にいるつもりだった。
家族を失い、僕以外に信じられる人がいなくなっていた彼女から離れるわけには行かなかったから。だってそうだろう?僕がいなくなれば、彼女は今度こそ死んでしまうかもしれない。
だけど、それにも限度がある。毎晩毎晩時間も気にせず鳴り響く通知音に、少しの未読で責め立てられる始末。
僕にも僕の人生がある。それに、彼女だってここ最近は僕以外にも心を許せる人が出来てきた。正直、僕の存在はもう彼女には不要なのだ。
だから別れを切り出した。付き合ってるわけでもないのに別れ、だなんておかしな話だけど。
「そんな事言うなんて、あたしのことはどうでもいいんだ…」
最初は、そう言って泣いた。それでも僕が折れないことを悟ると、
「だったらあたし、死ぬから。」
そう言って、どこからか取り出したカッターを喉元に当てた。
そんなもので死ねるわけもないだろうに。
「僕は…それでも一緒には居れない。」
そう告げると、彼女は傷ついた表情をして、苦しげに呻いた。
それを背に僕は立ち去る他なかった。ここにいては、より彼女に未練を与えてしまうから。
どうか彼女には真っ当な、依存しない生活をして欲しい。
彼女の幸せを、心から願うものとして。
「君も、あたしを裏切るんだね…」
そっと呟いた彼女の、最後の声は届かない。