「この場所で」
この場所でもう一度、と、随分甘ったるい約束をしたものだった。
「どこにも書けないこと」
どこにも書けないこと。例えば、もう誰も呼ばない己の昔の名前であるとか。
別に思い入れもないものだった。誰が付けたのかも分からない、意味などないのかもしれない、単に個体を識別するための番号と大差ないそれかもしれない。最後に呼ばれた記憶は酷く忌々しいもので。嘲笑と共に吐かれたそれが脳裏で谺している。気を紛らわせる一服が欲しくて、しかしどうにも身体に力が入らずに起き上がれなかった。荒い呼吸を落ち着けようとしている俺の腕に、すり、と何かが擦り寄ってきた。一瞬ぎくりと身体に力が入って、すぐに抜けた。まだ思考が現実に戻りきれていなかったらしい。制御を取り戻した身体をごろりと横に向け、傍らの温もりを抱き寄せる。恋人は小さく「んん、」と声を漏らしたが、そのまますやすやと眠っている。警戒心が無さすぎるだろう。自分の腕の中で安心しきったように眠る姿が喜ばしいような、目を開けて此方を見てほしいような。がぶり、と首筋に歯を立てる。痕が残るくらいまで力を入れて、漸く恋人は目を開けた。
「どうしたんですか……」
眠気でふにゃふにゃした声に笑みが零れる。
『ミッドナイト』
夜行性の恋人は夜が更けてくると機嫌が良くなる。対して私はと言えばもう眠気を覚えている頃合どころかもう布団に入っていてもおかしくない。それでも何となく眠る気になれずに、こうして恋人の隣でソファに沈み込んでいた。傍らの恋人はワイングラスを揺らしているが、自分の呼気に含まれるアルコール臭にすらげんなりしている有様ではそれに付き合う気にはなれなかった。
自分の傍らでソファに沈み込んでいる恋人を見る。随分と眠たげにしているが、まだベッドに行くつもりは無いらしい。普段は実に健康的な生活の男だが、このところ度々会食が入っていたのが随分堪えているらしい。お疲れの恋人を癒してやるのはやぶさかではないのでこうして隣でワインを飲んでいるが、正直なところそろそろ眠気が来ていた。飲み干したグラスを置き、その手で恋人の顎を捕らえる。見返してきた目にあまりにも力が無くて笑ってしまう。軽く口付けてやるとじわじわとその目が見開かれ、次いで困ったように揺れた。「今はあまり付き合えないぞ」などと宣うので苦笑してしまう。
「余程眠いと見えるな。或いは卿の思う私はそんなにも鬼畜なのか?」
担がれて運ばれたくなければベッドへ行け、と促すと渋々動き始めた。横になった途端に眠りに落ちそうな男に再びキスを落とす。恋人はこちらに手を伸ばそうとする様子を見せたが、途中で力尽きてしまった。
「雪」
「道理で冷えるわけだな」
カーテンを開けて外を覗けば、街並みが白銀に輝いている。
「ほう、雪か」
肩に腕の重みがかかって、すぐ耳元で恋人の声がした。先程まで寒さで不機嫌だったくせに、妙に機嫌の良さそうな声である。
「雪が好きなのか?」
寒いのは嫌いなくせに。体温が低いからか気温が低いのが堪えるようで僅かに機嫌が悪くなる。だが言外に匂わせたそれは伝わらなかったようだ。
「雪は良い。白に鮮血が映えて、美しいからな」
上機嫌に続けられた言葉に納得する。ぶれない男だ。
「庭に冬薔薇でも植えるか」
ふと思いついて口に出せば背後の男が上機嫌に笑った。
自然と意識が浮上して、そっと目を開ける。恋人が分厚いカーテンを引いた室内は暗く、外の時間を悟らせないが、長年の習慣からいつも同じくらいの時間に目が覚めるようになっている。
身を起こしても傍らの恋人はまだ眠っていて、それもいつものことだ。ジェレミアより三つ程歳下の男の寝顔は存外あどけないもので。初めのうちはジェレミアが目覚めると彼も目を覚ましていたが。いつの間にかこうして寝顔を拝めるようになった。彼は幾分夜行性らしく、自然に起き出してくるのはジェレミアよりも少し遅い。
彼とこうして並んで眠る日が来るとは、以前の私には想像も付かなかったことだろう。身体を重ねるようになったことよりも、2人の関係に『恋人』という名前が付いたことよりも、それが一番不思議だった。