「どこにも書けないこと」
どこにも書けないこと。例えば、もう誰も呼ばない己の昔の名前であるとか。
別に思い入れもないものだった。誰が付けたのかも分からない、意味などないのかもしれない、単に個体を識別するための番号と大差ないそれかもしれない。最後に呼ばれた記憶は酷く忌々しいもので。嘲笑と共に吐かれたそれが脳裏で谺している。気を紛らわせる一服が欲しくて、しかしどうにも身体に力が入らずに起き上がれなかった。荒い呼吸を落ち着けようとしている俺の腕に、すり、と何かが擦り寄ってきた。一瞬ぎくりと身体に力が入って、すぐに抜けた。まだ思考が現実に戻りきれていなかったらしい。制御を取り戻した身体をごろりと横に向け、傍らの温もりを抱き寄せる。恋人は小さく「んん、」と声を漏らしたが、そのまますやすやと眠っている。警戒心が無さすぎるだろう。自分の腕の中で安心しきったように眠る姿が喜ばしいような、目を開けて此方を見てほしいような。がぶり、と首筋に歯を立てる。痕が残るくらいまで力を入れて、漸く恋人は目を開けた。
「どうしたんですか……」
眠気でふにゃふにゃした声に笑みが零れる。
2/7/2024, 11:48:56 PM