『君の背中』
「ね、ちょっとあいつを困らせてみない?」
放課後、ノートを忘れて教室に取りに行ったところ、中から声がした。クラスメイトがまだ数人残っていたらしい。話しかけられているのは、畑中ゆずだった。彼女は前回のテストで2位をとっており、今回のテストこそ1位を取ってやると私に宣言しにきた。
忘れたノートは試験範囲をまとめたものだった。
十中八九、ノートをどうにかされるんだろうなと思いつつ、話しかけられていた畑中ゆずはなんと答えるか気になって廊下で聞き耳をたてていた。
私は勉強が好きだ。でも、人付き合いは苦手で、今回のように嫌がらせされるのも珍しくない。そんな中、畑中ゆずは、私に話しかけてくれた稀有な人だった。周りが私と距離を置く中で、あの人だけは…。
変に心臓がドクドク波打つのを感じながら待っていた。
不意に畑中ゆずの声が聞こえて神経が集中する。
「……私はあの人の後ろにいたいわけじゃない。今回のテストこそ1位をとるつもり。」
「なら…」
「かといって、あの人を引きずり下ろしたいわけでもない。
私はね、あの人と向き合っていたいの。あの人と対等の場所に行きたい。正々堂々戦って、そこで勝ってようやく私は自分を誇れる。そうでしょ?
私は、気持ちだけはいつも誇り高くありたい。だから、卑怯な真似はしたくないかな」
カタンと椅子から立ち上がる音がして、こっちに向かってくる。見つかってしまう……!隠れなきゃ……。
・・・
(はぁ、最悪。せっかく残って勉強してたのに、やな気分になった!!)
不機嫌さを隠しきれないまま、つかつかと歩き廊下へのドアを開けた。
「……っ!」
驚いたことにそこには学年1位の冴木あすみがいた。いつから話を聞いていたのだろうか。
「ああ、お疲れ」
何事も無かったかのように一言だけ言ってその場を去ろうとした。
「まって…!」
不意に冴木あすみが呼び止める。
「え?」
「あの、さっきの言葉…う、嬉しかったです!
私も、正々堂々、あなたと向き合っていたい…。次のテストも1位をとりますから…!」
顔を赤くしながら一生懸命伝えようとしているのが伝わる。追いかけてるのは私だけかと、見えているのは背中だけかと思っていた。違ったのだと今ならわかる。
「言ってくれるね。今回は私だよ。あはは、私たち良いライバルになれそうだね」
・・・
言った…!言えた!こんな機会でもなければ、私は勇気を出せなかったかもしれない。そう思うと、あのクラスメイトにも感謝しなきゃかな。
ずっと憧れていた。誰とでも仲の良いあなたに。
あなたは私を評価してくれていたけれど、私の方こそあなたには及ばないちっぽけな存在だった。追いつけないと思っていた。
でも、あなたは私をライバルと認めてくれた。だから…
もうその背中を追いかけたりはしない。
背中を向けられるような存在にはならない。
向き合っていたいから。ただひとりのライバルと───
『遠く……』
青い空。星まではどのくらいの距離があるんだろう?
ふと手を伸ばしてみる。なにかを掴めるはずもなく、ふっと笑って手を降ろした。
諦めそうな時、私は上を向く。
遠い遠い空の上で、星になったご先祖さまたちが見守ってくれているような気がするから。
まだやれる。負けたくない。
見ていてください、遠い空の上から。
『誰も知らない秘密』
「ねぇ、種をまいたら木が生えてくるかな?」
りんごを頬張りながら少女は言った。少女の純粋な質問を聞いて、周囲の雰囲気はほっこりと和んだ。昼下がりの公園。日曜日ということもあり、多くの人が訪れていた。
「そうね。ちゃんとお世話してあげたら、生えるかもしれないわねぇ」
少女の母親らしき女が言った。
それを聞いた少女の瞳はこれ以上ないくらいに期待で輝いていたものだ。
しばらくして、少女は公園の端のほうでせっせと作業をしているようだった。小さなスコップが傍らに置いてあるのを見る限り、先程言っていたように種を植えたのではないかと思われた。
「何を植えたの?」
母親がきいた。
「それはねえ、うふふ、内緒!」
少女は溢れんばかりの笑顔で答える。子どもの想像力とは豊かなもので、いずれ生える理想の木を思い描いているのだろう。満足したのか親子は帰っていった。
大方植えたのはりんごの種だろうと見守っていた誰もが思っただろう。しかし、少女が食べていたりんごはうさぎの形に切られていた。つまり、種は取られていたはずである。少女は何の種を植えたのか?
それは、誰も知らない。何が生えてくるかは当人である少女ですら分からないのだ。
────土の下では少女の埋めた秘密が、未知なる未来を待っていた。
『静かな夜明け』
───ねぇほら、綺麗でしょう?
いつも騒がしい彼女が愛したのは、意外なことにも静かな夜明けだった。光が溢れてくる様子が好きなのだと。それをきいて、わかる気がした。
わたしにとっては彼女こそが夜明けそのものだったからだ。
孤独な闇の中にいたわたしを明るく照らして、あたたかな光のもとへ連れていってくれた。
彼女はもういない。
代わりに、今日から彼女の弟がわたしのご主人になる。
虚ろな瞳には何も映されていない。よく知っている瞳だった。彼は今闇の中にいるのだとすぐにわかった。
───暗闇は怖いわ。でも、暗闇を知っていなければ光の大切さはわからないでしょう?貴方は私の光よ。だからそう名付けたのよ、ひかり。
彼女は暗闇の怖さを知っていた。同時に闇があるから光が生まれることも理解していた。
目の前の彼は光が見えていないだけだ。ならば、わたしが照らせばいい。彼女がわたしを光だと言ってくれたように、彼にとっての光になろう。彼女ならきっとそうするから。
ぽんと彼の顔に肉球をあてる。
「わたしは、ひかり」
伝わらないかもしれない。それでもいい。
彼の夜明けはまだこれからだ。
heart to heart
その瞬間、じんわりと体の奥が暖かくなるのを感じた。不思議な感覚だが、嫌な感じはしない。むしろ心地よい気持ちだった。そこでようやく気づいた。
ああ、心はここに…私の中にもあったんだ───
胸の前で結んだ手に自然と力が入る。じいんと残る余韻を感じながら、今こそ、恩を返す時だと決心していた。