冬は一緒になれる季節だ。
人と一緒になることはない。服と一緒になれる。そんな季節。
寒い時は布団と一緒にベッドの住民になれる季節でもある。寒さ対策として。
そしてもう一つ、一緒になれる服がある。冬ならではの服と一緒に。
それは、着る毛布。別名としてはガウンとも言う。合っているかどうかは、知らないがね。
毛布の生地にバスローブのような快適性。人によっては冬の間の定番ともなっている。
昔、ホームセンターで2000円ほどの値段で購入した物。数年経った今でも現役で活躍している。
家にいる間は、起きてから寝るまでずっと一緒。
であればいいのだが、さすがにトイレに行くときや、調理している時は脱いでいる。
四六時中、常に一緒にいたいがそれは不可能だ。
しかし、それ以外は常に一緒にいる。予定がない時や、だらだらと過ごす時などは。
アクセサリーを身につけるかのように、着る毛布を羽織る。相棒のような安心感に包まれる。
快適さを味わうかのように。
着る毛布が手放せない。それはもはや依存ではないだろうか。
冬だけの依存。それこそが着る毛布の魅力なのだろう。
さすがに、着る毛布を着ながら、外に出る勇気は無いがね。
それをやれば100%変人である。変人の私から見ての変人である。さすがに私にも羞恥心はある。
もしかしたら、人一倍かもしれない。無意味に目立ちたくはないのだから。
冬の間の私の友であり、相棒であり、依存する対象であり、常に一緒にいたい物。
それが私と着る毛布との関係なのであるーー。
人は誰もが服を着るもの。しかしそれは、人は服に依存しているのかもしれないーー。
私はとりとめのない話が苦手である。
というか、会話する相手がいない。
いるとしても、ただの業務連絡がほとんど。
会話することができないのだ。意味をどこか求めてしまうのだろう。
INTP。論理学者。思考診断で見てもらったもの。ただのネット状だがね。
内向的で直感を好み、論理的であり、柔軟性を持っている。
内省保持者であり、好奇心を持っているそうだ。
客観的に見た私という情報であるが、集団行動は苦手である。
独りを好む。孤独であるが孤独を楽しめるか。私は楽しんでいるのだろう。
私は嫌われ役をやるのだろう。だがそれを敢えてやる。悪魔の代弁者のように。
非論理は本当に苦手である。とりとめのない会話というのも同じ。
非行動者であり、可能性のままにしておきたい。可能性のままならばあらゆる答えがあるのだから。
そういう私は生き辛い人生を送っているのだろう。私の人生を真似したいなら、真似してみるといい。相性が悪いなら、すぐに根を上げるだろうから。
言い過ぎのボーダーラインはどこだろうか。分からないから言わない。そのほうが楽だから。
とりとめのない話と言うのはこんなものだろうか。情報開示みたいな感じになっているように見えるのだが。
野菜から人間が実るなんて、夢でしか無いのだからーー。
私にとって風邪の症状は喉の痛みから来るものだ。
しかし、ここ近年は風邪を引いていない。新型コロナウイルスの感染ぐらいだろう。
思い当たることと言えば、私は朝食を摂らないことぐらいだろうか。
朝食を摂っていた時は、年に一度や二度のペースで風邪やインフルエンザに罹っていた。
しかし、一人暮らしを始めてからはコロナウイルスの感染以外で風邪を引かなくなった。
不思議なものである。これは朝食を摂ることが私にとって合わなかったことの証明になるだろう。
ついでに、一日二食の生活をしたらどんどんと痩せていった。
これはつまり、一日三食の食事が私にとって食べ過ぎていたと言う別の証明であると言えよう。
健康のために三食食べてと言うが、体質は人それぞれお異なるもの。
重要となるのは、自分自身の体質を把握して、それに合った食生活を送ることではないだろうか。
それは決して無視してはならないもの。自分と向き合うことが必要となってくるのであるーー。
雪を待っている。降ってくれるのを。それしかできないから。
この地域には雪がめったに降らない。降ったとしても積もることはない。
けれども、雪が降れば心が嬉しくなる。寒いのは嫌だけども。
雪を待つ。それはどうしてだろう。心が何故かワクワクしている。
風に舞う雪を見て、きれいだと思いたいからかもしれない。後でどんな結果になるかは分からないとしても。
雪を待つ。それは再会を願ってのことなのかもしれない。遠くへ行った想い人との約束を果たすために。例え幾度の季節を巡るとしても。
雪を待つ。雪だるまを作りたいから。だから、積もってほしいと思ってしまう。叶わない願いだとしても。
寒さ満ちる静かな夜に願うのは積もってほしいという願い。
それは叶わないものだとしても、叶ってほしいという気持ちがある。
雪を待つ。ただ静かに。幻想の中だとしてもーー。
ーー人は願わずにはいられないのかもしれない。矛盾を孕むものだとしても。
子供のように無邪気さをみ持つことは純粋さの表れでもあるのかもしれない。
かつての子供たちは大人になり、やがては老いていくのだろう。その時にこそ、子供の頃に持っていた純粋さを取り戻せるのかもしれないのだからーー。
冬の木々を纏うのは人工の光。考えられた配置は色とりどりの光を放つ。
イルミネーションの光は誰に向けて輝いているのだろうか。暗闇の夜を照らすためだけに、冬の時にしか存在できないもの。
だけども、駅前から離れてしまえば、闇夜の時が始まる。
暗い道を歩いて帰路に向かう。その足取りは軽いのか。それとも重いのか。それは誰にも分からない。
寒さから吐き出る白い吐息。足取りは帰路へと急いでいる。
早くこの寒さから抜け出したいとばかりに。
暖かい我が家へと帰っていく。
駅前を照らすイルミネーションの光は、闇夜の道を照らし出すことは叶わない。
わずかに電灯の光が照らす道を人々は駆けていくーー。