ジーキャー

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12/13/2024, 10:04:42 PM

 何も無い小部屋に何を置くか。それは一つの悩みである。
 ただ単に物を収納する。それだけでは無難だとしてもつまらない。
 せっかく空いたスペース。収納する物が無ければ、どうすれば良いのか。活用を考える。
そして、考えて出た結論は隠れ家にすることだった。
 一人暮らしで賃貸アパートのなか、隠れ家を作りたくなっている。それは一つの衝動に近いものがあると言えよう。
 結論が出たなら行動に移すのみ。S字フックにラティスを引っかけ、そこに造花の花や蔦を這わせ、色彩を加える。
照明はランタンで。フローラの消臭剤で良い匂いを。マットを敷き、クッションを置く。
 そうやって出来上がったのが、押し入れと言う小部屋に作られた隠れ家である。
 ただそこに居るだけ。フローラの匂いが満ちる暗闇の中、呼吸するのも良い。ランタンの明かりで書き物をするなどもできる。
マインドフルネスのために使うこともできる。
 そうやって、押し入れの空きスペースに愛情を注ぐようにして作り上げた。それは誰にも邪魔されない。暗闇に愛を注いでいくのもまた一興。
 さて、隠れ家に籠もって、暗闇を味わおう。狭くて暗いものだとしても、それが一つの胎内回帰でもあるのだからーー。

ーー押し入れを使った隠れ家。それは暗くて狭いもの。しかし、ある種の胎内回帰でもあり、心が落ち着く場所でもある。暗さと狭さの融合がもたらすものだとしてもーー。

12/13/2024, 7:55:23 AM

 心と心を繋ぐもの。それもまた心ではないだろうか。
 言葉にしたもの。それを心から想う気持ちがあるのなら、それは心となる。
 繋ぎ止める言葉は温かいものであるべきである。冷たい言葉には、どんなに想いを込めたとしても、繋ぐ力はそこには無い。
表面的なものでは、あっさりと離れてしまう。ゆえに深いところから繋ぐべきではないだろうか。
 自分の幸せばかり追求するのではなく、他人の幸せを追求する。
自己犠牲的とも言えるかもしれない。しかし、自己犠牲に勝る愛はどこにあると言えるだろうか。
 心と心を繋ぎ止めるのは深い愛からくる心からのもの。それこそが自己犠牲的な愛である。
 それは私が勝手に思っているものであって、一般的なものではないかもしれない。
けれども、それに勝る愛を私は知らない。学んでもいない。
 故にこそ、自己犠牲的な愛は心からのものであり、心を繋ぎ止める力を有しているのであるーー。

ーー心と心を繋ぐのは、温かいものであり、心からのものでなくてはならない。
 例えそれが、純粋なものであったとしても、歪んでいたとしても。
 心を繋ぎ止めようとするものであるがゆえに、必死になるだろう。
 スマートに繋ぎ止めるか否かは、あなたが繋ぎ止めたい心に左右されるのだからーー。

12/11/2024, 11:14:06 AM

 大丈夫。平気。けれども、体調不良は続いていて。
ストレスから来るもの。だけど、発散する方法が無くて、溜まりゆくばかり。
なんでもないフリをして、自分を誤魔化していて、自分のことなのに見てみるフリをして。
遂には、病気を切っ掛けにして潰れてしまった。
 求めて、求めて。でも、行動に移せなくて。早く移していれば結果は違っていたのか。
それは誰にも分からない。ただただ、不調を誤魔化し続けて、遂には来てしまった。
もはや、誰も信頼できない。医者ですら同じ。誰も見てくれない。だから、闇を抱えてしまった。
 できるからじゃない。できるからって、人を見ない理由にはならない。死を求めさせる環境にしたのは、向こうだ。
これは責任転嫁か。否、正当なる糾弾の火矢である。ゆえに燃えてしまえばいい。何もかも。
 離れた結果。大地の休息は戻ってきた。元々は私のもの。私のものを奴等は勝手に奪っていった。それが戻ってきた。傷だらけになって。
 なんでもないフリをして、身体はちゃんと反応するもの。それを私は知った。
死を求めたくなる環境なんて、おかしい。生贄にしてまで繁栄したいのか。ならば、生贄などいなくなってしまえばいい。
 崩壊の音色は鳴り響いた。七連の鐘の音色は鳴り響いた。
それは、望まれた未来を崩壊させるもの。繁栄する未来を砕くもの。廃墟のぬるま湯の完成だ。冷めゆくばかりで温まることは決してできないのだからーー。

ーーそれは過去の境遇を書いたもの。現在は大地の休息を得られている。太陽の休息も同じく。
なんでもないフリをして、自分を誤魔化すべきではない。不調を探り続ければ、解決の糸口は掴めるはずなのだ。
 奴等は盲目を愛していた。そのベールが剥ぎ取られたに過ぎない。影響が大きくなったところで、打つ手は生じ得ないのだからーー。

12/10/2024, 10:41:02 AM

 仲間。それは共通の目的を持った人物たちのこと。パーティーメンバーとも言うべきものだろう。
協力して何かを成し遂げるのも同じ。
 仲間意識を持つのは大切だろう。共に一致して行動するためにも。
 ただ私は独りでの作業が好きなのだよ。このように文章を書き紡いでいること。それは基本的には一人でしかできないことなのだから。
 しかし、仲間に見てもらえる。読んでもらえると言うのは、何とも言い難いものを感じることがある。
 感想を求めることができるというのは、仲間という読者がいてくれるからできることだと思う。
 私はただ思うがままに書き散らかしているだけなのだ。それでも、面白いと言ってくれる人がいる。それはそれで個性でもある。
 書いている人も私にとってはある種の仲間とも言えよう。テーマに沿って思うがままに、ペンを指を走らせ打ち込んでいく。短文でも長文でも良い。
 書いていくこと。読んでくれること。それ自体は無言で行われるとしても、作品を通して交流していることに他ならない。
 エッセイだろうか。物語だろうか。私が走らせるペンは、打ち込む指は、あなたにどう思われているかは分からない。
 けれど、私との作品を通した無言の交流はあなたにどんな影響を与えているのか。
 それは私にとって、知る由もないことであるーー。

12/9/2024, 10:56:47 AM

 手を繋いで、握手をする。それはスキンシップ。誰もができる友好の証。誰と手を繋ぎたいかは人それぞれ異なるもの。
同性のみだったり、異性ともだったり。相手は人それぞれ異なっている。
異性とするのは結婚している夫婦だけだったりしている。あるいは子供同士だったり。
無邪気な子供たちの握手は親愛の証でもあるかのよう。仲良しや仲直りの証明であるかのよう。
 大人になれば、最愛の人や友人たちとの握手が主になるだろう。ビジネス相手との握手も同じく。
 握手とはより親密になりたいという気持ちの表れなのかもしれない。握る強さによっても。
強く握れば、強い信頼を示したい。親愛が強い証拠となる。弱ければ愛は弱くとも穏やかなものだろう。握る強さが弱いだけかもしれなくても。
 愛の絆で結ばれている夫婦を見てほしい。あの二人が交わし握る握手は弱いものだろうか。
そうではない。強いものである。互いへの愛が強いからこそ、それが握手にも表れるのだ。
その二人が交わす握手というのは、弱いものではない。弱かったらさっと終えてしまうだろう。
 強い握手と弱い握手。どちらにしても、そこにあるのは親愛の情でもある。
 最愛の人の最期の時にも交わすのも握手である。弱々しくともそこには愛の強さが秘められている。誰もそれを邪魔するべきではない。二人だけの遺された時間を大切にするためにもーー。

ーー握手というのは、世界中で受け入れられているスキンシップの一つ。同性異性関係ない。
 握手の拒否というのはスキンシップの拒否にも繋がる。それは縁を自分で断つのと同じ意味となってしまう。それはとても悲しいものである。
けれども、握手する相手はしっかりと選ばなければならない。悪い相手との付き合いが良いものを台無しにしかねないものであるのだから。
 だからこそ、しっかりと気をつけなければならない。良い相手とのスキンシップを楽しむのなら、自分自身が良い人になれるのだからーー。

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