冬野さざんか

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6/15/2024, 1:54:08 PM

好きな本ですって? そりゃもう山のようにあるわ。比喩でもなんでもなく、ほんとうにそうなのよ。家に置いた私の背丈よりも高い程度の本棚じゃあ全然足りない。学校の図書館の書架みーんな使ったって足りない。だから好きな本の中から泣く泣く厳選して選び抜いてやっと家に置くものを決めないと、私の家なんてそれはもう私の家じゃなくて本の家になっちゃうってくらいにはね。
 でもね、ある詩を知ってね、そりゃあ私の家がそんなふうになっちゃうのも当たり前よって納得したの。
 あなた、知ってる?
 “世界は一冊の本”って。

「好きな本」

6/14/2024, 6:57:30 PM

 雨が降るのか降らないのか、どんより灰色に垂れ込めた雲の合間から、かすかにだけ差すやわい日差しの美しいこと。
 うすぼんやりしたその光、鈍色の雲の向こうには確かに晴れ間があるのだと、そう教えてくれるあわいの足掻きか愛おしい。
 だから、開かぬ傘を持ち、日差しもまばらな道をゆくのだ。

「あいまいな空」

6/13/2024, 11:09:47 AM

 雨が好きなので、傘を差してご機嫌。人がいないことを確認して、傘をくるくる回しながらご機嫌。濡れた道路の中で、水溜りになっていないところを注意深くスキップ。パラパラと傘を雨粒が叩く軽快な音が楽しくて笑った。雨雲を透過してやってくる日差しは、夏の兆しを纏ってもなお優しい。雨の日の特権、明るいだけの夏の太陽。足元からくる爽やかで、しかし湿った空気の中を踏み進む。すると、この季節の雨が一番似合う彼ら彼女らがお目見えだ。
 ああ、この辺だとそういう気分なのね、と、訳知り顔で頷いてみてからふと笑う。美しい青。少しスモーキーで柔らかで、雨の滴を弾いて光る花々の連なり。向こうの子達は赤紫がかっていたけど、ここの子らはどこまでも青だ。
 梅雨の雨足は強まるだろう。それに負けじと花々は上向き、一層咲き誇る。まんまるかわいい花束たちは、ただそうやって誇らしげ。
 最近紫陽花が好きになったので、私は彼らに挨拶を。きっと空の雲から見たら、私のビニール傘だって、紫陽花模様に見えるだろう。

「あじさい」

6/12/2024, 11:30:24 AM

 この歳になってまで、花びらに気持ちを託すことになるなんて思わなかった。好き、嫌い、好き、っていう、花占い。小さい頃はよくやってた。玄関前のマットを花びらだらけにしてはお母さんによく叱られたけれど、最後には笑って許してくれた。お母さんもやったことあるの、なんて。
 嫌い、好き、嫌い。
 ねえ、フィボナッチ数列って知ってる? ううん、大した意味はないんだけど。
 ね、この花占いが終わる頃に聞いて。このマーガレットの花びらがみんななくなったら、きっと。

「好き嫌い」

6/11/2024, 3:20:57 PM

 あたしの故郷は田舎町。見渡す限りの田園風景、遮るものは何にもないから、遠くの山に霧がかかるのも、それが晴れるのさえみーんな見えた。その霧の隙間にみかんの木があるのまで、みーんな。
 バスに乗って、電車に乗り換えてガタゴト揺られて合計一時間くらい、あたしの故郷の近くでは、一番大きな街に行けた。初めて行ったときにはびっくりしたな。山が見えないの。ビルの背が高すぎてね。ほんと、目が回るかと思った。どこにもここにもあたしの故郷くらいに濃密な緑は見当たらなくて、その代わり、細っこい街路樹が窮屈そうに、まるで申し訳程度の彩りのためにちょびっと添えられたパセリくらいの緑色をしていた。ああ、ここが都会なんだなって思った。花の色の代わりにショーウィンドウのマネキンがカラフルを誇示して、畑の実りの代わりにあっちこっちのカフェが競うようにコーヒー豆を挽いていた。これが都会なのか、って、そう思った。
 最初はね、そのキラキラが羨ましくて、羨ましくて、あたしもいつかはここに、なんて、思った。思ったことがあるの、意外でしょ? そうでもない?
 まあそうか、今、あたしはここにいるものね。
 でもね、時々、本当に時々、無性に恋しくなるの。胸を掻きむしりたくなるくらい、遠くの山にかかる霧が。

 女は一つ息を吸って、ふぅ、と、紫煙を吐き出した。

「街」

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