奇跡、というのは滅多に起こらないから奇跡というらしい。
だとすれば今日この日はおれにとってまさに奇跡中の奇跡といっても過言ではないはず。
「はじめまして? 久しぶり?
うーん、どっちも違うなあ……」
困ったように頬を搔く男子高校生。初対面なはずなのに彼の名前がスッと口をついて出てきた。
「空、さん……」
「え? 竜くん知り合いなの?」
おれと空さんを交互に見て、紫音さんが驚いた様子で言う。
おれは彼女に軽く頷いて、空さんの手を掴む。
「ちょうど良かった。空さんにも見せたいものがあるんだ。
また忘れても困るし、うちに来て!」
「そりゃもちろん行くけど、お母さんに連絡入れてからでもいいかな?」
「ああ……、黒渕くんのお母さんって過保護っていうかちょっとヘリコプターペアレント気質があるって前に…言って、た……」
目を見開いて口を押さえる紫音さんに空さんも同じように驚いた顔をしている。
きっと今の今まで忘れていたんだろう。おれが紫音さんのことも空さんのこともキレイさっぱり忘れていたように。
「な、なんで……私、そんなこと、知ってるの……?
だって、黒渕くんとは……」
「うん。今日が初対面なはず……だよ」
空さんは少し考えるような仕草をして、これは推測なんだけどと前置きをして紫音さんに語った。
「もしかしたら竜くんと出会ったから忘れていた記憶が声をあげているのかもしれないね。
これまでふとした瞬間にあの人のことを思い出すことはあっても、藍沢さんみたいにそれ以外の人のことを思い出すことはなかったから」
あの人、という言葉に紫音さんも真剣な顔つきになって大きく頷く。
おそらく空さんの言うあの人も、おれや紫音さんが思い浮かべているあの人も同じ人に違いない。
なぜだか知らないけど、とにかく確信めいたものを感じた。
「だったら忘れないうちに早く行こう。
おれの記憶違いじゃなければ……それか母さんが捨ててなければあるはずだから」
二人が頷いたのを見ておれは小走りで家に向かう。
急いでいるのもあるけど、どうしようもなく胸が高揚してたまらなかった。
忘れていたもの、求めていたものがすぐそこにある。
そしてそれはもうすぐ手に入れられるんだ!
【忘却のリンドウ 10/16】
書いた覚えのない私直筆の手紙。それを渡してきた知らない男子。
謎めきすぎて何がなんだかわからない。
よし、甘いものをヤケ食いしよう。
そう決意したものの、学校の近場では手ごろなお店がないし、あと見られたら恥ずかしい。だからちょっと遠くにあるあの喫茶店に行くことにした。
結構前に教えてもらった穴場の喫茶店。
誰に教えてもらったのか忘れちゃったけど、ご飯もスイーツも美味しくてお財布にも優しいからちょくちょく通っているとてもいいお店。
たった一人で切り盛りしてる女の店主さんのことがわりと好きだし、ここでバイトしてもいいかな? とちょっとだけ思ってる。
まあお店のことはさておいて。食べたいものをとにかく頼んでバクバク食べていると、ガラス越しに私を見ていた中学生くらいの男の子と目が合った。
この子、まさか!
私はガラスにへばりつく勢いでその子をまじまじと見る。
確か、そう……名前は……
「……竜くん?」
そう言うと彼はとてもびっくりした顔をして喫茶店の中に急いで入ってきた。
嬉しそう……だけどどこかぎこちない笑顔を浮かべて私の名前を呼ぶ。
「紫音……さん」
面識はないはずなのに、知ってる、知られていると思えることがとても嬉しかった。
そんな私たちを見て、なんだかワケありだと察したのか店主さんはバックヤードに行くかと提案してきたけど竜くんはそれを断った。
「見せたいものが家に……あった、はず。おれの思い違いじゃなければ……
また忘れても困るし、すぐ来て!」
グイグイ私を引っ張る竜くんをなだめて、お会計を済ませてから喫茶店を出る。
数歩歩いたところで竜くんの名前を呼ぶ声が聞こえて思わず振り返る。
そこには安心したように笑って私たちを見つめる黒渕くんがいた。
『どんなに離れていても私たちの絆は不変だと信じている。
だから忘れないでくれ。私という男がいたことを』
懐かしい声が耳の奥でリフレインする。
そうだ、あなたは私にいつも笑いかけてくれた。
……ああ、どうして忘れていたんだろう。
私の一番大好きなあの人のことを。
【忘却のリンドウ 09/16】
朝、スマホのカレンダーアプリを見てため息を吐く。
今日の予定に、二組の藍沢さんに手紙を渡すこと。と書いてあったからだ。
彼女とは何の接点もない。だからすっぽかしても誰も何も言わないはずなんだけど……おととい届いた自分宛ての手紙に
『半年後の僕へ。この手紙に身に覚えがなくても、藍沢さんを知らなくても、同封したもう一つの手紙を彼女に必ず渡すこと。でなければ後悔する』
と書いてあれば渡さないわけにはいかない。
……おかげでクラスの女子たちの興味の的になったけど。
彼女たちからの追及をなんとかかわして逃げるように学校を出る。
下校ルートも変えて歩いていたのに待ち伏せされたと思ってしまうぐらい堂々と待ち構えていたクラスの女子の一人に捕まってしまった。
「ねえねえちょっと訊きたかったんだけど黒渕くんもコイアイ好きなの?」
「こ、コイアイ?」
「『「こっちに恋」「愛にきて」〜あなたは一番好きなひと〜』っていうドラマなんだけど、シチュエーションがほとんど一緒だったの!
だから好きなのかなーって」
「いやー……ドラマはそんなに見ないんだ」
「ふーん。まあ黒渕くんは藍沢さんが好きだもんね。
他の女優さんにうつつを抜かしてる場合じゃないもんね」
「はあっ!? ちょ、ちが」
「じゃあ私こっちだから! ファイトだよ〜!」
……明日学校であらぬ噂がはびこっているかもしれない。
手紙を渡しただけなのに、なんでこうなるんだ……
ガックリ肩を落としながらトボトボ歩いていると、とある喫茶店から藍沢さんと中学生ぐらいの知らない男の子が出てきた。
その子を見た瞬間、あの『忘れるな』という幻聴がリフレインしたかと思えばその続きも思い出した。
『忘れるな。私の弟のことを。私たちの関係を。
空がどこまで忘れるか見当もつかないが、そのことを絶対忘れるなよ』
寂しそうな声。君がどんな顔をしているのか名前も姿も、君との関係も忘れてしまったけど、君の弟のことは思い出せたよ。
「……竜くん」
前を歩いていた男の子が振り返る。
驚いたその顔は初めて見たはずなのに、ずっと前に見たことがあるような気がした。
【忘却のリンドウ 08/16】
やけに広く静かに感じる家。
なぜか片側に寄ってるおれだけがいる写真。
ふとした時に耳の奥から聞こえる幻聴。
変な違和感がありまくるのに、その違和感の主がわからない。
親も先生も友達も何の違和感もないらしく、日々元気をなくしていくおれに『志望校へ行くために頑張っているのは知ってるけど、ちょっと根を詰めすぎ』『目のクマヤバいから少し休め』と見当違いな心配をしていた。
そしてあまつさえ親は学校に電話して今日は休みますと勝手に連絡を入れていた。
……家にいても気が滅入るだけなのに。
でも親に怒っても仕方がない。だからいっそのこと気分をリフレッシュさせるため昼食を外で食べ、後はぶらぶら散歩することにした。
気になっていた場所に行ってみたり公園でボーっとしてみたり……だけど気分はそこまで晴れなかった。
日も若干傾きかけてきた頃、とある喫茶店の前を通ると一人でスイーツを爆食いしている女子高生がガラス越しに見えた。
この制服は志望校のやつじゃ……? と思っているとその女子高生と目が合った。
その瞬間、彼女は勢いよく立ち上がり目を見開いてガラスに張り付かんばかりにおれをじぃーっと見て、少し不安げな表情で言った。
「……竜くん?」
声は聞こえないのにも関わらず、絶対おれの名前を言ったと確信めいたものがあった。
だからおれは弾かれたように喫茶店に駆け込んで、彼女に声をかける。
「紫音……さん」
この巡り逢いはおれにとって間違いなく分岐点となった。
この奇跡のような巡り逢いがなければきっと完全に忘れていただろう。
……あの人のことを。
【忘却のリンドウ 07/16】
学校を早退したあの日を思うと心がモヤモヤする。
なんであんなに罪悪感と違和感を覚えたんだっけ?
なんであんなに悲しかったんだっけ?
とても……とても大事な何かを忘れてしまったような気もするけど、それがわからない。
……忘れてしまったってことは、そんなに重要でもなかったってことかなあ。
そう思っていると別のクラスの男子から呼び出されて手紙を渡された。
周りにいた女子も男子も、まさかラブレター!? と色めき立って私と手紙の男子に注目する。
彼は全く緊張の素振りも見せずに自然体な感じで明るく言った。
「覚えてないかもしれないから一応言っとくね。
僕は黒渕 空。この手紙を今日君に……藍沢 紫音さんに渡すよう、君から頼まれたんだ」
「……え? 私が頼んだの? この手紙を?」
「うん。じゃあ確かに渡したから」
黒渕くんは周りの注目を浴びながら帰っていき、私は視線を感じながら封筒を開けて手紙を確認する。
『私から私へ。
黒渕くんからちゃんと受け取ったね?
疑問がなければそれでよし。
全くわけがわからないなら、思い出して。
忘れてしまってもどうにかして思い出して。
そして、絶対に忘れないで』
……確かに私の字だけど、なんでこんなものを書いたのか、何を思い出せば良いのか、さっぱりわからない。
なんで過去の自分は主語を書かなかったのかなあ?
……というか書いた覚えもないし、わかんないことだらけだ……
よし、学校終わったら何か甘いものを一人でヤケ食いしよう!
どこへ行こうかな……まあ、適当でいいかぁ。
【忘却のリンドウ 06/16】