鬱蒼とした森の奥、ススキの原に囲われた。古い長屋がありました。月の宿と言われるその家は、屋根の茅は剥げていて、壁には蜘蛛の巣が張っています。襖は黄ばんで、一部は破け、夜風がビュービュー入ってきます。
噂では、妖怪たちが棲家にしてるとか、山姥がいるとかありますが、あの長屋がどうして宿屋と呼ばれているのかは、誰も知りませんでした。
長月の頃。ある旅人が長屋の近くを通りかかりました。時は夜更け、彼は途方に暮れていました。
道半ばで迷ってしまい、どこからどうきたかもわからなくなり、暗くなって、明かりもない。そういうわけで、とうとう諦め、岩の上に転がっていたのでした。
空に一点の満月が、雲にぼんやり隠されて、
僅かに森を照らしています。
旅人に奇妙な考えが浮かびました。
「そうだ、月見をしよう。こんなにも月が美しいのだ」
月はぼんやり、団子もない。あるのはススキくらいでしょう。月見というには、あまりに貧相ではありませんか。
へらへらと笑みをこぼしながら、旅人はススキを探そうと、原っぱの方へ駆け出しました。
ススキの原は、茎を左右になびかせて、
白い頭を振っています。まるで踊りか、海の波。そこにすかさず旅人が、半狂乱に飛び込んで、ススキはすっかり折れてしまいました。
旅人もあざだらけ、痛い痛いと言いながら、ススキの頭を取りました。
「よし、これで月見もできるだろう」
戻ろうとした旅人は、奇妙な音を耳にします。
ドンドンドン、響いてくるのは、太鼓の音。
リンリンリン、混ざってくるのは鐘の音。
長屋から聞こえる祭囃子の音。
「もしかして、人がいるんじゃないか」
月見の予定はどこへやら、祭囃子に誘われて、旅人は長屋に入ります。
中は、蜘蛛の巣だらけのシミだらけ、床はミシミシ軋みます。その音をかき消すほどの祭囃子は、ぼんやりとした灯りの一室から聞こえました。
意を決して、旅人が中に入ります。
そこには、動物たちがおりました。
牛に馬、兎に狐、みんな赤あざだらけです。
その上、手足を糸に縛られて、操り人形のように太鼓や鐘を鳴らしては、皆々踊っておりました。
天井には、それを面白そうに見つめる白い蜘蛛が、くるくる回っています。
蜘蛛は旅人を見つけると、お腹から糸を飛ばして、旅人がに襲い掛かりました。
旅人は、慌てて逃げようとしますが、足が動きません。床には糸の絨毯が敷かれていて、既に旅人の足をくっつけていたのでした。
そのまま手足を縛られて、観念した旅人は、宴に太鼓を同じように叩くのでした。
夜明け、雀が鳴き出す頃。
一夜の幻は立ち消えて、長屋はすっかり静かになっていました。いつのまに寝ていた旅人も、日に目覚め、伸びをしました。
旅人が外にでると、ススキの原に道ができていました。穂先の種がポツポツ落ちて、倒れた草木でできた道。
「なんだか疲れも取れて、全身に活力が漲るようだ。きっと神様が助けてくださったのだ」
道ゆく彼の姿を見て、長屋にすくった白い身体の持ち主は、沢山の目を細め、にっこりと笑うのでした。
『ススキ』
「ずいぶん遠くまで来たものだ」
闇の支配する森の中、無意味に響く、空虚な言葉、人里離れた高山の奥地に、誰も答えるものはない。
「言うのはまだ早い」
土埃だらけのバッグから、小瓶を一つ、手に取った。月明かりが私を照らし、蓋に浮かべた文字列を写す。
“最期”
「月に看取られ死ぬ。滑稽なものだ。」
蓋を回して、中を見る。
緑と光沢ある粉と、それに混ざる白い粉。
水を注ぎ、綿棒でかき混ぜる。粉が浮かび泡立つと、どろどろとした黒いものに姿を変えた。
髪と草木が風に揺れ、身体に意味のわからぬ震えが起こる。
「何を怯えることがある。人は皆どうせ死ぬのだ」
無意な哲学を口にして、震える両手を勇気づけ、私は小瓶を飲み干した。
ザラザラとした砂粒が喉の各所にへばりつき、薬品じみた苦みと甘み、火傷のような無感覚から、急落するような微睡みが来た。
止まらぬ拍動、瞳が膨らみ、ぎちぎちと音を立てている。消えかけた焚き火に薪を継ぎ足すような、命の止まらない抵抗だった。
あらゆる音が消えた頃、視界の月の姿は消えていた。
いつの間にか、花畑に立っていた。
白い冠じみた花々は、鼻を擽り、その匂いは少年時代に嗅いだものだ。隅っこに誰かが立っている。私が腕を伸ばすと、からかうように押し返された。
木々の隙間に光が漏れて、何本もの柱を写す。濡れた地面に私は座っていた。
空を見ると、どこまでも続く水平線に、朝日が浮かんでいた。腕で顔を拭きながら、
私は山を下っていった。
『脳裏』
劣等感、ただ抱くはその感情、
お前は書くのが下手くそだ、お前の話は面白かない。知ってる心に嘘をつき、満腹しらない虚栄を満たす。弱い心は牙を剥き、野獣も恐るる傷を作る。君は凄くて、俺は下手、事実を比較し、勝手に優劣つくる。
いつしか誰もいやしない。
君は言った。”書くのが楽しい”
俺も言った。”書くのが辛い”
好きこそ物の上手なれ、いつからこうなった?俺も好きだった。好きだった。そのはずだ。皆に褒められるのが嬉しかった、認められるのが嬉しかった、天才、凄い、無意味な賞賛の麻薬を浴びて、有頂天になったピエロには、観客はいない。
皆は言う、ネガティブな事を言うな、悲観的になるな、無理だ。無理だ。過去の栄光に嫉妬する。君の書くものに嫉妬する。皆の書くものに嫉妬する。何一つ罪のない人間に嫉妬する。心に詰め込んだ雑多な知識はゴミばかり、本当は何も満たさない。
そうして再び帰ってくる、
考えたって、”しょうがない”
『無意味なこと』
君のことを知った時、
私は君を救いたいと心に決めたんだ。
高校の頃に僕らは出会った。
君は陸上部の部長だった。
君は、顔も愛想も良くって、誰にも平等に声をかけていた。みんなが君を名家の生まれだとか、コンクールで入賞したなんて、ありもしない噂をしてた。
当時の僕は、君が羨ましかった。
勉強もできて、イケメン、その上、運動神経抜群、天は二物を与えずなんて、大嘘だ。
僕みたいな友人すらいない、
ろくでなしとは違うんだ。
そんな風に思い込んでたね。
だから、はじめて君の背中にある
夥しいほどの痣を見た時、僕は自分がどれだけ君を見ていなかったか、理解したんだ。
赤じゃない、ぽつぽつとした青白いような黒子のような痕、どう見たって普通じゃない。
君は病気だと言って、更衣室から出ていったけど、あれはそういうものじゃないとわかってた。胸騒ぎがして、君に対して興味が沸き起こった。
それから僕は、君から話を聞くようになった。最初は一方的な質問で、君は明らかに嫌がってた。でも、僕はやめなかった。
終業式が終わって、皆が夏休みの予定を話す中、僕はいつものように図書館で君を待った。部活が終わると君は決まって図書館に来た。そして、机の上に参考書の山を築きあげて、真剣な眼差しでノートをとる。
僕は邪魔しちゃ悪いと思ってたけど、いつも君に声をかけた。ときおり、一緒に勉強もした。
そして、決まって最後に傷のことを聞いた。
何度も君に怒られたり、嫌がられたり、誤魔化されたりした。けど、最後に君は話してくれた。
両親の中が悪いこと、母親が躾と称して、
殴られたり、蹴られたりしたこと。
内申点やテストを一点でも逃すと、それが余計に酷くなること。中学でいじめに遭い、それを誰も助けてくれなかったこと。
無数の不幸の洪水で、思わず僕は溺れそうだった。広げたままノートが濡れて、はじめて君が感情を見せた時、僕は必死に励ましたけど、涙が止まらなくて、どっちが辛いのか全くわからなかったよ。
それから、僕はできる限りのことはした。
君の話を聞いたり、先生に相談を持ちかけたり…、所詮高校生で、バイトも禁止だったから、できることは限られてた。
僕は、話を聞いたり、一緒に遊ぶくらいしかできなかったけど、それでも君の表情が徐々に明るくなっていったのは、嬉しかったよ。
さて、僕らは社会人になって、すっかり会わなくなってしまったね。
君が母から逃れるためとはいえ、住所も言わずに消えてしまったから、住所を探すのに随分苦労したよ。
卒業写真を見てたら、いろいろ思い出しちゃってね。無性に君に会いたくなったんだ。
同僚からいいお酒を貰ってね。
君さえ良ければ、また一緒に馬鹿な話でもしてみないか?
『あなたとわたし』
某日、アパートの窓辺から、外を覗く一人の男がいた。空は快晴、熱すぎず寒すぎずの心地よいお昼時、公園には子供たちが駆け回り、世間の空気などお構いなしに今を楽しんでいる。絶好のお出かけ日和である。
しかし、男は落胆していた。
晴天にため息を漏らしては、喧騒に耳を塞ぎ、頭を抱えている。
お天道様を恨めしそうに睨みつけ、もう一息漏らしては、窓を閉めた。
次の日の朝、空に雲が飛んできて、雨のカーテンが掛かっていた。暴風に打ちつける雨、どんよりとした、憂鬱な空模様。
男はすぐに飛び起き、カッパを付け、ノート片手に駆けだした。
河川敷、川沿いに高低様々な草木が茂り、風に共に揺れている。木々が転々と生え、その合間の小さなベンチには、誰一人と姿はない。
男は、忍び足で一つの高木へ向かい、その中途で腰を下ろした。
見れば、数匹の雀が集まっている。
柔らかい雨に濡れ、毛は蝋に浸したように纏まっている。互いに身を寄せ合って、一体となり、寒さに雨が過ぎるのをひたすらに待っている。
男は、ペンを取り、ノートを広げ、まじまじと人のない世界に身を置くのだった。
『柔らかい雨』