※ちょっと長めです。
五年間もの間、音信不通だった姉が帰ってきた。
アロハシャツみたいな柄のスカートを履いて、大きなサングラスをかけて、ハイ!とネイティブのような声を上げた。僕は大きな溜息を吐いて、無言のまま姉を招き入れた。
緑茶がいいとごねる姉の前に麦茶を置く。
「どこ行ってたの」
「見てわかんない?」姉はスカートを示す。「これ見たらもう分かるでしょ」
ハワイのどこかの島で日に焼かれている姉を想像した。想像したままにハワイだと答えれば、ブッブーと口を尖らせて笑う。頭の中の姉に持っている盆を投げつけた。
「正解は〜、オアフ島でーす!」
「どこだよ」
「ハワイ諸島の三番目に大きい島」
実際に盆を投げつけたくなった。敏感に察知したらしい姉は僕の腹を蹴る。なにすんだよと睨めば、防衛本能だけど?となんてことない顔で言った。とっとと野生に帰れ。ここは本能なんて捨て去った、呑気な人間共が生きる人間社会だ馬鹿姉貴。
オアフ島が具体的にどこにあって、どんな島なのか。僕には全く知識がなかった。ただ姉がベラベラと喋ってくれるので調べる必要はない。僕にある海外の知識は全部姉から仕入れたものだ。そこには嘘なんてひとつもなくて、姉が体験して感じた全てがある。そしてそれが紛れもない事実だった。
「で、次はどこに行くの」
「お金なくなってきたし、しばらく日本にいるよ」
とてつもなく嫌な予感がする。
「僕の家はダメだからね。彼女できたから困る」
ニヤリと笑った姉を見て、即席のバリケードがあっけなく突破されたことを悟った。そう、彼女ができたなんて真っ赤な嘘だ。あまりにも見え透いた嘘だったが、何の疑いもなく嘘だと思われたことが癪だった。五年も時間があったんだ。少しぐらいは可能性だってあるだろうに。
「ねぇ、なんでいつもそんなに澄ましてんの」
「なにが」
「何度も何度もこうやってるのに、帰ってくるたびに安心してるじゃん」
姉はしょっちゅう音信不通になる。昔は日本のどこかを旅しているだけだったのに、数年前からは海外にまで足を伸ばすようになった。回数を重ねるたびにその時間は長くなり、間隔も狭まっていた。なにがきっかけなのかは知らない。行動力の鬼である姉が成長した姿が今、というだけなのかもしれないけれど、そうではないと僕は知っていた。
きっかけは知らないが、そうであると知っているんだ。
「海外は物騒だからね。向こうで死なれたら手続きとか色々めんどくさそうだし」
「日本も同じくらい物騒だと思うけど」
帰ってくるたびに別人になっている姉を見て、羨望と焦りがごちゃ混ぜになる。あんたはなにになりたいんだ。そう尋ねられたらどれだけいいだろうか。でも僕は尋ねたいわけじゃないし、それで姉が答えてくれるとは思えない。
変わってしまった。昔の姉はもうどこにもいないし、今目の前にいる姉も次に帰ってくれば別人になっているのだろう。
「あんたの安心した顔見ると、帰ってきたなと思うのよ」
姉は必ず僕のところに帰ってくる。いつだってそうだった。
クソ男と喧嘩した時も、子供が生まれた時も、裁判が終わった時も。絶対に僕のところに帰ってきて、ただいまって言う。どんな時でも一人として同じ姉はいなかった。みんな違う顔をして、雰囲気を纏って、違う考え方をしていた。
時々、目の前にいる女は誰なんだろうかと思うことがある。
それは多分姉も同じなんだろう。弟の元へ帰ってくるけれど、別人になってしまった姉からすれば僕と会うのは初めてなのだ。というか実際にそう零していた。友人の一人、元軍人が生物兵器の後遺症で亡くなった時に。僕の家で、ぼろぼろと涙と鼻水、訳のわからない英語を垂れ流しながらそう言った。
僕はその時ふっと閃いたんだ。
どんなに変わっても、姉にとって僕は僕なんだ。
この世にたった一人の弟で、なにがあっても揺らがない部分に刻み込まれた“帰る場所”なんだ。
姉は赤くなった鼻をぐずぐず言わせながら、それってつまりどういうことなのよ、とめんどくさい女ムーブをかました。僕は勤めて冷静に返す。僕を愛してるってことだよ。言葉に溢れてくるような、行動に表すようなものではなくて、無意識な本能の部分で愛してるんだ。
「いつまで続くんだと思う」
レースのカーテンを突き抜けてくる夕日を浴びて、僕たちは金色に輝いている。氷はすっかり溶けて、麦茶と綺麗に分離していた。
「これからも、ずっと」言葉はまるでピースがはまるみたいに。「僕たちが生きている限り、ずっとだよ」
「私は新しい私になって、あんたは変わらずあんたのままだ」
姉は初めて笑った。子供の頃のように、無邪気で意地悪そうな笑みだった。
ふと、側に立って見下ろした時。
決まって「なに?」と、俺より背の低い彼女は顔を上げて、目を見つめてくる。
その、瞳。
俺に対する愛で満ちた、心底幸せそうな瞳。
俺だけを映す、愛しい愛しい瞳。
それだけが見たくて。
それだけを見ていたくて。
今日も俺は彼女の側に立つ。
しみるような優しい眼差し
愛のこもった柔らかい声音
肌が触れ合ったところから伝わる温もり
どうしてこうなった
なにを間違えた
いつから、おれは
ねぇ、いつもみたいに名前、呼んでよ
いつもみたいに笑ってよ
優しく抱きしめてよ
ずっと、ずっと一緒にいてよ
おれの太陽そのものなんだ
もう元には戻れないけど、それでも
『 』
「同情は決して悪いものじゃない」
メガネちゃんはそう言って、黙々とインスタを見ている。私も横から覗き込んでみたけど、画面にずらりと並ぶ投稿のゴテゴテした感じにうんざりした。
だから体勢を戻して、さっきメガネちゃんが言ったことを考えてみる。
「……『可哀想』ってさ、明らかに下に見てるのに?」
「受け取る方が卑屈になってるだけ。もちろん本気でそう言ってる人もいるかもしれないけど」
逆になんで全員が全員、そうだと思うの?とメガネちゃんは首を傾げた。
確かにそうかもしれないけど。
勝手に寄り添われてもなぁって感じだから、私は同情ってよくないと思う。
「やっぱり同情はよくないんじゃないかな?」
「でも同情って、相手の気持ちを想像して理解しようとすることでしょう?さっきの例は置いといて、それって悪いことなの?」
「んー……それって共感じゃない?」
「じゃあ、同情と共感の違いってなに」
言葉に詰まる。
どっちも相手の気持ちや苦しみを理解して、寄り添うこと寄り添おうとすること。
二つの違いは何だろう?
もし誰かに寄り添ったら、『同情はやめて』って言われるのかな。自分はその人の気持ちに共感しているのに。
「メガネちゃんの言う通り、受け取り方の問題かも」
「どういうこと?」
「受け取る人が『同情だ』って思ったら同情で、『共感だ』って思ったら共感なんだよ」
メガネちゃんが顔を上げて、ちょっと私を見つめてから眼鏡をとった。
「またひとつ、答えが見つかったね。パーマちゃん」
***
皆さんは『同情』と『共感』の違いはなんだと思いますか?
なぜ共感は良いイメージがあって、同情には悪いイメージがあるのでしょう。
誰かと話してみると、結構楽しいかもしれませんよ。
「ねぇ、ここどこ?」
いつのまにか周囲の景色は、見慣れた公園から不気味な神社へと変わっている。
公園で遊んでいたら、男の子が一人、声をかけてきた。
もっといっぱいあるところに連れて行ってあげる。
ほら、と見せてくれた手のひらには、きらきらと輝くガラスの破片。佳子が集めていたモノよりも角が丸くて綺麗で、まるで本物の宝石のようだった。
大喜びで男の子に手を引かれるまま、こうしてやってきたのだけれども。いつのまにか日は暮れかけていた。空の端に見えるオレンジ色の空に佳子の不安が募る。木が風に吹かれてざわざわと、まるで意思を持っているように揺れた。
足元の枯葉がカサカサ音を立てる。
ふと佳子は気づいた。
男の子の足元からは、何の音も聞こえないことに。でも枯葉は同じように踏んでいる。だから、音は出るはずだった。
いや、出ないといけない。
「ね、ねぇ!ここ、どこ__」
「もっといっぱいあるところ」
振り向いた男の子の、顔の部分にあったのは