1つだけ、なんでも手に入れられるなら何が欲しい?
「世界。」
予想外の規模の大きさ。冗談を言っているのか、本気なのかは目を見れば分かるけれど、それにしたって世界なんて。
「1つだけ、とかセコくないか。おれには欲しいものがたくさんある。1つだけじゃ満足できない。」
おまえだけで満足、とは言ってくれないの。
「それはおまえの気持ち?それとも存在?」
……どっちも。
「ふざけんなよ。おまえと過ごすためには生きなきゃならない。一緒に過ごす時間も、金もいる。全然足りない。」
だから世界なの?
「世界だ。おまえだけで満足しろって言われて、はいって言えるような出来た人間じゃないんでね。おれはおまえも、その他も全部欲しい。」
まさに俺様。ジコチュー。子供みたい。
「なんとでも言えよ。おれは諦めねぇから。」
知ってる。
「なら、いい」
にぎられた手のひらが、じんわり熱くなった気がした。
「おれはお前を愛してるから、何も言われなくたって分かる」
「お前がおれを『愛してる』って」
「だから、おれは愛して欲しいなんて思わない」
「言葉だっていらない」
「でもな」
「最期になるのなら」
「一度でいいから、言葉で聞きたいと思うんだ」
君にさよならを言う前に私がすべきこと。
「いきなり呼び出してなんだよ」
相変わらず微妙にダサすぎる服、人を舐め腐った態度。
「ま、どうせあれだろ?『まだ私のことが好ーー
右ストレート。
拳が綺麗に決まると、人はあんなに吹っ飛ぶものなのか。
私はにっこり笑って「浮気したくせに頭が高い」と吐き捨てた。
「電話も出ないくせに勝手に押しかけてくるなんて、ほんとに気遣いができないのねアンタは」
ドアを開ける瞬間は若々しいマダムの笑顔だったのに、私だと分かるとこの表情。
「いい歳した大人なんだからもういい加減ーー
ラリアット(威力4分の1バージョン)。
床に倒れる老人ぐらいではもう痛まないぐらい、心は傷つけられたんだよ。
私はにっこり笑って「反抗期遅くなってごめん」と吐き捨てた。
最後にやってきたのは君の元。
ベッドに横たわる君を見て、私は溜息を吐いた。
「君の望みはなんでも叶えると言ったけど、後で大変な思いをするのは私じゃない」
「でも引き受けてくれたじゃないか」
君はにっこり笑ってこう言った。
「冥土の土産はこれぐらいインパクトがなくっちゃね」
「ありがとう」
「さよなら」
私もにっこり笑ってこう言った。
わたしの手から離れていく
鋭い先で大気を切り裂き
紙でできた白い鳥は
とおく とおく とおくへと
遠い空へと飛んでいく
白い鳥は雨に溶け
柔らかな空の綿となる
青に浮かぶ眩い白は
ふわふわ ふわふわ ふわふわと
呑気な様子で風に乗る
空はゆっくり流れてく
わたしが行けぬところまで
山こえ 海こえ 街をこえ
巡り巡って戻るのだ
丘の上 空の下
風に靡く長い髪
高く 強く どこまでも響くように叫んだ
私はここにいる
※ちょっと長めです。
五年間もの間、音信不通だった姉が帰ってきた。
アロハシャツみたいな柄のスカートを履いて、大きなサングラスをかけて、ハイ!とネイティブのような声を上げた。僕は大きな溜息を吐いて、無言のまま姉を招き入れた。
緑茶がいいとごねる姉の前に麦茶を置く。
「どこ行ってたの」
「見てわかんない?」姉はスカートを示す。「これ見たらもう分かるでしょ」
ハワイのどこかの島で日に焼かれている姉を想像した。想像したままにハワイだと答えれば、ブッブーと口を尖らせて笑う。頭の中の姉に持っている盆を投げつけた。
「正解は〜、オアフ島でーす!」
「どこだよ」
「ハワイ諸島の三番目に大きい島」
実際に盆を投げつけたくなった。敏感に察知したらしい姉は僕の腹を蹴る。なにすんだよと睨めば、防衛本能だけど?となんてことない顔で言った。とっとと野生に帰れ。ここは本能なんて捨て去った、呑気な人間共が生きる人間社会だ馬鹿姉貴。
オアフ島が具体的にどこにあって、どんな島なのか。僕には全く知識がなかった。ただ姉がベラベラと喋ってくれるので調べる必要はない。僕にある海外の知識は全部姉から仕入れたものだ。そこには嘘なんてひとつもなくて、姉が体験して感じた全てがある。そしてそれが紛れもない事実だった。
「で、次はどこに行くの」
「お金なくなってきたし、しばらく日本にいるよ」
とてつもなく嫌な予感がする。
「僕の家はダメだからね。彼女できたから困る」
ニヤリと笑った姉を見て、即席のバリケードがあっけなく突破されたことを悟った。そう、彼女ができたなんて真っ赤な嘘だ。あまりにも見え透いた嘘だったが、何の疑いもなく嘘だと思われたことが癪だった。五年も時間があったんだ。少しぐらいは可能性だってあるだろうに。
「ねぇ、なんでいつもそんなに澄ましてんの」
「なにが」
「何度も何度もこうやってるのに、帰ってくるたびに安心してるじゃん」
姉はしょっちゅう音信不通になる。昔は日本のどこかを旅しているだけだったのに、数年前からは海外にまで足を伸ばすようになった。回数を重ねるたびにその時間は長くなり、間隔も狭まっていた。なにがきっかけなのかは知らない。行動力の鬼である姉が成長した姿が今、というだけなのかもしれないけれど、そうではないと僕は知っていた。
きっかけは知らないが、そうであると知っているんだ。
「海外は物騒だからね。向こうで死なれたら手続きとか色々めんどくさそうだし」
「日本も同じくらい物騒だと思うけど」
帰ってくるたびに別人になっている姉を見て、羨望と焦りがごちゃ混ぜになる。あんたはなにになりたいんだ。そう尋ねられたらどれだけいいだろうか。でも僕は尋ねたいわけじゃないし、それで姉が答えてくれるとは思えない。
変わってしまった。昔の姉はもうどこにもいないし、今目の前にいる姉も次に帰ってくれば別人になっているのだろう。
「あんたの安心した顔見ると、帰ってきたなと思うのよ」
姉は必ず僕のところに帰ってくる。いつだってそうだった。
クソ男と喧嘩した時も、子供が生まれた時も、裁判が終わった時も。絶対に僕のところに帰ってきて、ただいまって言う。どんな時でも一人として同じ姉はいなかった。みんな違う顔をして、雰囲気を纏って、違う考え方をしていた。
時々、目の前にいる女は誰なんだろうかと思うことがある。
それは多分姉も同じなんだろう。弟の元へ帰ってくるけれど、別人になってしまった姉からすれば僕と会うのは初めてなのだ。というか実際にそう零していた。友人の一人、元軍人が生物兵器の後遺症で亡くなった時に。僕の家で、ぼろぼろと涙と鼻水、訳のわからない英語を垂れ流しながらそう言った。
僕はその時ふっと閃いたんだ。
どんなに変わっても、姉にとって僕は僕なんだ。
この世にたった一人の弟で、なにがあっても揺らがない部分に刻み込まれた“帰る場所”なんだ。
姉は赤くなった鼻をぐずぐず言わせながら、それってつまりどういうことなのよ、とめんどくさい女ムーブをかました。僕は勤めて冷静に返す。僕を愛してるってことだよ。言葉に溢れてくるような、行動に表すようなものではなくて、無意識な本能の部分で愛してるんだ。
「いつまで続くんだと思う」
レースのカーテンを突き抜けてくる夕日を浴びて、僕たちは金色に輝いている。氷はすっかり溶けて、麦茶と綺麗に分離していた。
「これからも、ずっと」言葉はまるでピースがはまるみたいに。「僕たちが生きている限り、ずっとだよ」
「私は新しい私になって、あんたは変わらずあんたのままだ」
姉は初めて笑った。子供の頃のように、無邪気で意地悪そうな笑みだった。