スプレー缶を振る。カラカラと撹拌玉が軽快な音を立てた。
黒と緑、それから白を使って壁に絵を描く。無機質な灰色がアートに塗り替えられていく。
「あなた、なに、描く?」
振り返ると一人の東洋人がいた。壁に背をつけて、笑顔でこちらを見つめている。
「俺に聞いてる?」
「うん」
東洋人は俺の作品を指さして、「かっこいい」と真剣な表情で言った。
嬉しいけれど、これは立派な犯罪だから少し居心地が悪い。肩をすくめて作品を仕上げた。スプレー缶をリュックに入れた。缶を入れるとどうしても汚れる。メッシュ素材のリュックはバレやすいけど後処理が便利だ。
「行こうぜ」
きょとんとしていたが、「来ないのかよ」と聞くと顔を輝かせてついてくる。童顔なのもあって犬みたいだと思ったのはここだけの話だ。
午後の街はいつもより時間がゆっくり流れる。道端に座ってもよかったが、ケイゴが物珍しそうに見回すので、結局案内することにした。
東洋人の名前はケイゴ。俺より少し背が低くて、目が少し細かった。日系というわけではないらしく、肌が黒いのはすっかり日焼けしているだけだという。
「なんでここにいんの?旅行?」
「あー、親の仕事、一緒にきた」
「ふぅん。何の仕事?」
ケイゴは顔を顰め、しばらく唸ってから「ジャーナリスト」と一言呟いた。説明できるだけの語彙がなかったらしい。
「かっこいいじゃん」
お世辞のつもりだったが、ケイゴは嬉しそうに頬を緩ませた。
「俺はさ、アートが好きなだけだよ」
プロ並みのテクニックを披露するスケーターたちを見ながら、俺はいつのまにか話し出していた。
「他の人たちみたいな、『街を作りたい』『認めてほしい』ってのはないかも」
「でも有名。なりたい。違う?」
「当たり前だろ。有名になったら仕事になる」
俺がやっていたことが仕事になる、というのが結び付かなかったのだろう。ケイゴはしばらく考え込んでいたが、すぐに答えに辿り着いた。
「あ、大きい絵か。ビルの」
ビルの壁はキャンバスだ。
行政に認められて、堂々と自分の傑作を作り上げていける。それができる人たちに憧れた。俺もいつか、絶対描き上げたい。
「仕事にできたら、今日みたいにコソコソ描くのとはもうおさらばだ」
「……ストリートで描く、やめたい?」
「やめないけど。これは俺の原点だし」
軽くリュックを蹴ると、缶どうしがぶつかって高い音が響く。ケイゴはずっと楽しそうにしていた。しばらく無言が続いたけど、俺たちは気にしなかったし、気まずくなんてなかった。
「君が有名になったら、俺が取材する」
「マジ?じゃあ頼むわ」
俺たちは拳をぶつけ合った。
今日という日にさよならを。
「ただいま。はいコレお土産ね」
ん、と差し出された手のひらに、紙袋を引っ掛けた。
さっさと開け始める彼女を見て、自然と口角が上がる。気づかないフリをしながらコートを脱いだ時、どすんと背中に衝撃がきた。
「ねぇ、なにこれ」
「気にいらなかった?」
「ちがう。そうじゃなくて…」
彼女が手にしているのはシンプルなネックレス。嬉しいような困ったような顔で、彼女は俺を見上げた。
「…友人にあげるにしては、ちょっと」
「人の金で肉食べるの好きなのに」
「また話が変わってくるでしょ、だってこれって」
両手で頬を包み込む。
咄嗟に反応できなかった彼女は硬直し、ほんのりと頬を染めた。俺はできるだけ優しく微笑んでやる。
「“ただのお気に入り”だって思ってるの、お前だけだから」
俺はお前のこと、『お気に入り』扱いした覚えはないけど?
真っ赤になった彼女を置いて廊下に出れば、形容しがたい悲鳴が聞こえてきた。おもしろ。
誰よりも愛していた。
でもそれは、僕の勘違いだったみたいだ。
知らない男の前で幸せそうに笑う君。
初めから可能性なんて、
ほんの少しもありはしなかったのだと気づいた。
踵を返そうとした僕を呼び止めたのは、
僕の一番の友人だった。
「失恋したばっかりの君に、こんなこと言いたくないけど」
誰よりも愛してます。
だから私を選んでくれませんか。
側の店のショーウィンドウには
ぽかんと口を開けた僕の顔が映っていた。
ゆらゆらと光が揺れている。
廃工場の汚い床に寝そべって、
ガラスが張られた天井を見つめていた。
火事で全焼したくせに、
奇跡的にガラスだけは残っていて。
熱で溶けて、ぐにゃりと歪んだガラスは、
光を奇妙に反射させて、
床や壁、真っ黒なカタマリを照らし出す。
ゆらゆら。
ゆらゆら。
まるで、水の中にいるみたいだ。
水底に沈んで、届くはずもない地上に思いを馳せる。
静かな、とても静かな海。
私は生まれつき目が見えない。
発覚した時、両親はひどく狼狽したが、娘が健康ならそれが一番と納得(?)したらしい。
難病や疾患のある子供のために怪しい宗教なんかにハマったりする親もいるのだと聞いたことがある。だから私はひどく安心したものだ。ちょっと悪く言えば、私の両親は呑気な人たちだったから、納得(?)できたのだろう。別に親が嫌いなわけじゃない。心配な時があるだけ。
とにもかくにも盲目の私は、これまでたくさんの苦労をしつつも生きてきた。
なんてことはほぼない。
ほんとうに。嘘なんかじゃない。
私は、世界を色で見ることができたから。
無機物は大体灰色に見える。
生物の見え方は、だいたい二つのパターン分かれている。
まずは感情や意思を持たないものは、目が見える人たちと一緒の色に見える。植物とか昆虫とかがそうで、葉っぱは緑や黄色に、モンシロチョウなら白といったふうに見えた。
次に感情や意思を持つもの。つまり動物や人間たちは、感情の色で見える。その人の全身が、その時の感情の色で染まるのだ。だから背の高さや体型なんかわかるけど、顔の良し悪しや表情なんかはわからない。
面白いのが、感情の色が人によって違うということだ。例えば悲しみなんかはよく青色だというけれど、人よっては黒と青が混じり合った色だったりするのだ。
これこそまさに十人十色だ。
色で見える世界。
当たり前だけど、他人の感情が見えるのって結構しんどい。優しい口調なのに、ふとした瞬間に赤黒い色(おそらく敵意)に変わったりする人も、私や女性と話している時に真っピンク色になっていた人もいる。
でも、感情が見えなくたって、人の敵意がしんどくなるのはみんな同じだ。人生で一瞬しか関わらないクズのために、どうして私が潰れなきゃならない。そんなのクソ喰らえ!というスタンスでいなければ、私は今日まで健やかに生きられなかっただろう。両親のある意味最強な呑気さ(?)を受け継いだおかけだ。本当に感謝している。
ちなみに、ここまでは私の見える世界、そして人生の超超ダイジェスト版だ。
大切なのはここからで、さっき私は人の感情はそれぞれ違うと言ったと思う。同じ感情でも、少しずつ色んな色が混じっていたりするので、一人として同じ色はないし、単色なんてことそうそうない。
ましてや黒一色だなんて人はほとんどいない。経験上、黒というのは絶望の色なのだが、どんな人でもわずかに別の感情が混じっていた。もちろん私が一色だけの人を見たことがないだけという説もあるが。
あぁ、過去の私よ。その説は正しかった。
「大丈夫ですか?」
今、目の前で私に手を差し伸べてくれている男性は、夜よりも深く暗い黒で、その一色だけで染まっていたから。
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『色とりどり』プロローグ
※ラブストーリーです。色系のお題があれば、少しずつ書いてみようと思っています。