ふと彼女に会いたくなった。だから彼女が大好きだった可愛いクッキー缶を探すことにした。男の俺に女性の“可愛い”は難題だ。なのでネットで評判な商品を探してみたら、手作りで販売している人がいるのを見つけた。早速ポチって購入した。
数日後にクッキー缶が厳重に梱包で届いた。プレゼント用にしたら、丁寧にリボンを付けて包んでくれていた。青い猫が描かれた深い湖のような色の缶に、中にはナッツ入りや花の形をしたクッキーがたくさん詰まっている。彼女が気に入ってくれるといいけど。
クッキー缶を持って車に乗り込み、シートベルトを締める。そうだ、花も買っていこうと思い、近所の花屋に向かった。しかし記念日でもない日に花束なんて大げさだろうか。ぼーっと突っ立って花を見ていたら、店員が声をかけてきた。
「あぁ……彼女へプレゼントする花束をお願いしたいのですが」
「かしこまりました。彼女様にお渡しする花束ですね。どのようなお花がお好みでしょうか? 特別なメッセージカードをお付けになりますか?」
「花には詳しくなくて……メッセージカードは結構です。ただ、彼女が喜んでくれるような、明るくて優しい感じの花束にしてもらえると嬉しいです。お任せで大丈夫ですか?」
花屋の店員がにっこり微笑んで応える。
「了解いたしました。彼女様が喜んでくださるような、明るくて優しい雰囲気の花束をお作りしますね。お任せいただけるなら、季節のお花を使って素敵に仕上げます。少しお時間をいただきますが、よろしいでしょうか?」
そしてしばらくして、花屋の店員が花束を持ってきた。春らしい柔らかな色合いと優しい雰囲気が漂う素敵な一束だった。リボンはクリーム色のサテンで軽やかに結ばれ、彼女の笑顔を想像させるような、愛らしい仕上りだ。非常に満足して購入し、店を出た。
そして車を走らせ、到着する。クッキー缶と花束を持って車から降りると、生暖かい春風に乗って、大きな桜の木から花びらがヒラヒラと舞い落ちる。そんな中を数分歩くと、彼女が見えてきた。小さく笑みがこぼれ、彼女の前に来る。綺麗に磨かれた墓石の前には、桜の花びらが散っている。プレゼントを置いて線香を立てた。
「久しぶり。元気だった?……」
私は本を読まない。単純につまんないし。でも幼馴染の彼はある日、手作りの桜のしおりを私にプレゼントしてきた。小学生の時の話だ。
当時、4月になって早々、私は季節外れのインフルエンザにかかり寝込んでいた。家族でやる花見を楽しみにしていたので、私はとても悔しかった。雨が降って早く散ればいいのにと思った。
でもそのせいだったのか、彼はお見舞いとして、桜を閉じ込めたしおりを持ってきた。なんか薄いプラスチックの中に桜の花や花びらを入れて閉じ込めて、上に穴を開けて赤いリボンを通しただけの、しょぼいやつだった。
「桜を見られないって泣いてたら、可哀想だと思って。おまえ、桜めっちゃ好きじゃん」
学校に行って理由を聞いたら、そう言われた。
彼はお調子者で一見アホだったが、ピアノの才能があった。遊びに行けば何でも弾いてくれたし、おばさんは美味しいお茶やお菓子を出してくれた。行事ではいつも当たり前のように彼が伴奏を担当していた。今思うと、学校では彼が弾いてる所をあまり見たことがない。そして中学生になると彼は良い学校に行って、私たちはすっかり疎遠になって大人になった。
ある日、彼が地元でコンサートをやると、母から知らせが来た。どうやら保護者の間で話題になってるらしい。ああ、彼はピアニストになったのか。上手だとは思ってたけど、マジで才能があったんだ。へえーー。頭の中の幼い彼とは似つかない肩書きに、違和感しかなかった。
私は母と一緒に彼のコンサートに行った。地元でもそこそこ大きいホールの観客席は、人で埋まっている。そして盛大な拍手で出迎えられた彼は別人のように洗練された大人になっていた。
昔は短髪でいかにも活発そうな小僧だったのに、今はすらっと身長が伸びて、髪もハーフアップにしている。彼は慣れたように上品な笑顔を浮かべるがしかし口元には昔の気さくな笑みの面影がある。舞台の照明の下で感謝の笑みを浮かべて、お礼を述べている。
「皆様、こんばんは。私は幼い頃、この町でやんちゃな少年として過ごしておりました。それが今、こうして舞台に立ち、ピアノを演奏できることを夢のように感じております。これまで得た経験を胸に、地元の皆様に聴いていただける喜びは何にも代えがたいものです。本日はどうぞ、心ゆくまでお楽しみください。ありがとうございます」
コンサートが終わって、私は夢見心地だった。世の中の人がなぜ生演奏を愛するのか、分かった気がする。同じ空間で聴く音色の響きはもちろん、音の震え、音圧、巧みな強弱に乗せられたメロディに込められた感情が、耳を震わせて身体の内側に流れ込んで、何かを訴えてくるようだった。
【落としどころが分からなくなってしまったので終わります…スミマセン】
君といると、ひとりで居る時より寂しい。
「このまま溶け合って、君の一部になれたらいいのに。そして君が死んだら僕も死ぬ」
抱き合いながらそう言ったら、君は鈴を転がしたようなかわいい声で、楽しそうに笑った。
君のぬくもりが悲しい。ひとりの時に心に吹き込む隙間風が、とても寒く感じるようになったから。
君の約束は虚しい。未来の気持ちまでは約束できないと僕が想像していることを、君は知らない。
それでも僕は君との未来は明るいと信じている。
だってもう君は僕のものだから。僕に消化されて溶け合って、二度と離れることはない。ああ、昨日はその事実に興奮しちゃって、急ぎすぎたよ。だから今朝はお腹を壊しちゃったんだ。本当にごめんね。
「必ず迎えに来い。そうしたら2人で逃げよう」
私は彼の言葉に強く頷いた。しかしその約束は今のところ、果たされる目処が立たない。
私には決められた相手がいる…というよりは、そもそも私にはこの世に生まれた時から、こう生きるべきだというシナリオがあった。私はそこから離れて生きることができない。
「君が好きだ」
これは違う男からの言葉。もう何度も聞いた言葉だ。しかし私の胸は躍り、ときめき、全てをその男に委ねてしまうのだ。まるで初めて恋を知った少女のように。
「私も実は……出会ったときからずっと……」
震える声で、恥じらう花びらがゆっくりと開くように、私は愛を囁く。そうしなければならない。私はそうしなければ生きることができない。
しばらく沈黙が続き、彼に優しく抱きしめられたところで、世界は止まった。文字通り、凍りついたように全てが止まった。
私はゆっくりと立ち上がり、男の家を出る。時計の秒針は止まり、玄関に飾ってあった水槽の魚は、まるでゼリーに閉じ込められた模型のようになっていた。
私は急いで、約束した彼の元へ急ぐ。しかしその場所に彼はいなかった。息を切らせて周りを見渡しても、固まった人間たちの群れしか見えない。
「どうして……」
すると突然、作業服を着た男が現れた。帽子を目深に被り、その表情を窺い知ることはできない。しかし男はハッキリと告げる。
「バグはここにあった」
びくっと心臓が冷たく跳ねる。
「バグは取り除かれた」
なんの感情も乗せず男が淡々と告げる言葉を、私もまた、なんの感情もなく聞いていた。ない、とされれば、私にとってもそれは生まれたときから存在しないのだ。
「帰りなさい。お前がいるべき場所、愛すべき人間がいるところへ」
私には決められた相手がいる。生まれたときから決められているシナリオがある。私はそれから逃げることはできない。成長することも、死ぬこともないまま、同じ人に恋をして、同じ言葉を囁き続ける。