時計の針の音、車が走る音、筆を走らせる音。
1人の部屋では、どんな音も激しく聞こえる。
時報、クラクション、人が話す声。
街中では、どんな音も小さく聞こえる。
どっちが静寂に包まれているんだろう。
自室で作業をしていると、
景色が白むほどのゲリラ豪雨がやってきた。
街全体を水が覆っていく。
大きな音を立てて、人々をずぶ濡れにして。
まるで、寂しがるいたずらっ子のように。
いじわるなことを言われても、
まったく手を緩めない。
加減がわからず、
誰かに迷惑をかけてしまっても、
雨は変わらず雨のまま。
少し、いや、とても羨ましい。
どうしてそこまで、
誰かに対して何かをしようと思えるのか。
どうしてそこまで、
雨として自身を貫き通せるのか。
話ができるなら聞いてみたい。
屋内の声も掻き消えるほど、
激しい激しい通り雨。
誰にも聞こえないなら、
私も何か口ずさんでみようか。
秋になると、私は本とお茶が恋しくなります。
一冊の本とフレーバードティー。
本来、いつの季節でも楽しめるものですが、
友人に「なんだかお洒落だね」と言われて以降、何故か手が伸びなくなってしまっていました。
素朴な自分でいたかったのでしょうか。
からかわれるのが嫌だったのでしょうか。
自問してもわかりませんが、
どちらにせよ、人目につかなければ
いいだけのはずですが……
そんな謎のプライドを吹き飛ばすほど、
「読書の秋」「食の秋」と言う言葉は魅力的なようで、無意識に本とお茶の準備が進みます。
(大義名分の問題…?)
時間も忘れて本に没頭したら、寝る頃には
頭痛に襲われることもしばしば。
花粉と寒暖差が激しくなければ、
ずっと秋でもいいのに…
私が住んでいる町は、
高台ならどこでも海が見える。
中でも、3階の音楽室の窓から見える、
たった数センチの海が一番好きでした。
中高と吹奏楽部に入っていたのは、
そこから海を見るためでもありました。
海を見ながら練習したり、
仲のいい部員とサボってぼーっと眺めたり、
戸締りの時には海風を感じたり…
「おくのほそ道」の授業をしていた頃、
それに感化されて海へ行くことがありました。
両親が仕事で遅くなる日。
家の門限を破って、自転車で夜の海へ。
超特急の弾丸旅行です。
でも、何かが違う。
音楽室の海ほど好きになれない……
きっと、「安心感」がなかったからでしょう。
あの音楽室には、部員である仲間と、
海に飲み込まれない距離がありましたから。
恐怖心にうち勝てば、
いつか直接見る海も好きになれるでしょうか。
私は高校に入ってすぐの頃、
同性の先生からのハグに救われました。
当時、私は散財恐怖症とでも言いましょうか。
お金を使うことが怖くて、食べる時もシャワーを浴びる時も、できるだけ節約しよう、少なくしようとしていました。
それは病的な程で、白いはずのシャツが、
いつも汗で黄ばんでいるような程でした。
なんせ思春期。
当然の事ながら、同級生は私をからかいます。
詳しい脈絡は忘れてしまいましたが、
その事を問題視した先生が、音楽室の小部屋で吹奏楽の練習をしていた、私のところに来られました。
からかわれる事は嫌なのに、どうしたらいいのかわからない。
当時は散財恐怖症を自覚していなかったため、
支離滅裂にそう先生へ訴えました。
「ちょっと立って」突然の指示に言われるがまま従うと、先生は両手で私を抱きしめました。
「ごめんね、ごめんね」泣きそうな声を絞り出して、強く抱きしめてくださいました。
数日に1回しか洗濯をしていなかった私からは、
きっと悪臭が出ていたでしょうに。
何故抱きしめたのか。何故先生が謝ったのか。
視野の狭かった私にはわかりませんでしたが、
「負けちゃいけない」「強く生きなさい」
一見、押し付けがましいその言葉からも勇気を貰えました。
国語の先生だったその方は、きっと形の無いものの価値をわかっておいでだったのでしょう。
お金のためではなく、自分が自分であるために行動できるようになったのは、それからのことでした。