槙島驟

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5/29/2023, 8:43:38 AM

半袖だった。
真っ黒の無地の半袖。さりげないシルバーアクセサリーが左腕に嵌っていて、健康的な肌色と骨張った腕がペンを持っている。

風はなくて、君の奥二重は伏せられたまま静かに紙に向かってペンを走らせていた。

覚えているのはそれくらいで、名前も、何にも知らなかったけれど、少し肌寒い日に半袖だった君のことはよく覚えていた。

湿った空を君越しに見上げては、視線を戻す時には君の見かけによらず数のあいたピアスを盗み見るのだ。

君の声はどんな声をしているのかな。
どんな風に笑うのかな。
どんな音楽が好きなのかな。
どんな風に好きな人を呼ぶのかな。

「なに?」
「あ、ううん。なんでもないよ」
「大丈夫? ここ、わからない?」

君がそう言って指を指したのは、問6の問題で。すでに解き終わった君は首を傾げて私をのぞいていた。
君は空いたルーズリーフを取り出してペンを走らせた。

『ここに、xを代入。その式とこの公式をBで合わせる。そうしたらこの図のここが出るから。そうしたらあとは、この定理を使ったら解ける』

すっと紙を差し出してきた君の半袖からのぞいた肌が少し鳥肌が立っていた。

「寒いの?」

君は奥二重の目を見開いた後、顔を背けてしまった。数学の解説を無碍にしてしまったからだろうか。君の肩を叩いて振り返った君に「どうしたの?」と聞く。

「寒いの? って手話が……かわいくて」

恥ずかしそうに君は顔を赤らめて、曖昧な手話で返してきた。きっと声で話していたら、消え入りそうな声ってやつなんだろうな。

一気に暑くなったのか、顔を手でぱたぱたと仰ぐ君にほんの少しの風が吹いた。

5/27/2023, 10:54:53 AM

「天国って華やかで良いところなんだろうな」

 彼は窓の外を見ながら特徴的な目元のすだれまつげを上下させた。時折吹き入る夏始めの風は私たちの髪を梳いて、蝉が鳴くのをじっと待っていた気がした。

「天国は真っ暗だよ。豪勢な音楽や花とか煌びやかなものじゃないと思う。私は」
「どうして?」

 私は彼の腕の中に猫のように潜り込んで、すうっと目を閉じて身体を預けた。とく、とく、とく。彼の生が聞こえる。すぅ、すぅ、すぅ、彼の息が聞こえる。

「私にとっての天国は、君の腕の中だから。私はいつも目を閉じて、君の心臓の鼓動と息遣いを静かに聞いてるの。何より、日向ぼっこをするよりも暖かい、あなたの体温が好きなの」

 そう。だからきっと、天国が空にあるなら私には暑すぎるし、広すぎる。

「でもさ、僕らは」
「だめ。言わないで。今だけは私天国にいるんだもん」

 彼には毒がある。
 彼は私を愛してなんかいないし、私はそんな毒を解って飲んで依存している。毒があるほどに美しく、魅力的に見えるんだなんて。それなら、君は私に惹かれるべきよ。

 そんな地獄はすぐ隣り合わせで私を見つめている。目を開ければ、この腕から出れば、地獄は私を飲み込むのだ。

5/27/2023, 12:47:22 AM

「月がきれい、じゃ伝わらないから」

そう言った嬢は寒い気温のせいでしょうか、鼻や頬をほんのり朱色に染めていらっしゃいました。
先刻、月が本当に綺麗だったので、「月が綺麗ですね」とこぼしたのだが、いつぞやの文豪の告白のように嬢は捉えたのでしょうね。さあどうしたものでしょうか。

「お嬢、私はこの命、もとよりあなたに捧げる覚悟。星に願うだけでは物足りず、こうして月に願いを込めるのです」
「……なんて願うの?」
「あなたのためなら、『死んでもいい』と」

嬢は少し間を置いて私を小突きました。そしてまた、小さな声で繰り返したのでした。

「だから、伝わらないって」
「おやおや。私は最初からお嬢、月(ルナ)様のことを申し上げておりますのに」

イタズラに笑うと彼女は顔をもっと高揚させて怒ったように目に涙を溜めて私のループタイをぐいと自分の方にお寄せになりました。
小さな嬢の少し震えた柔い唇が触れました。外気にあたって最初は冷たさが伝わって、だんだんとお互いの熱が絡みました。

私と嬢は30cmの身長差がありましたから、嬢の背伸びに限界が来たところを抱き上げて月の見えるバルコニーを背に、年に一度しか会えない織姫と彦星が年に二回会うことよりも超えてはいけない一線を弾く音がいたしました。

5/24/2023, 2:16:41 AM

「呪い」と「縛る」と書いて「呪縛」と読むらしい。
呪いのようなもので縛られていることの状態を指すんだろうということは、文字を見て明らかである。
しかし、それは百パーセントマイナス面であろうか。呪いのような幸せや愛や、そんなものはあると断言しよう。

過去を巡った時に、「ああ幸せだった。あの人の愛をいつのまにか懐かしく思い出しては残り少ないあの日の温もりに手を伸ばしたくなる」なんてこと、私にはたくさんあって不幸だ。

愛だの恋だのそこからくる幸せは大概がその時そのあとまどろむような柔らかで徐々に、時々強く首を絞める呪いになる。その絞め具合すらも愛おしくて、いつしか縛られて「呪縛」の完成にたどり着く。